#26 小雨の日(All-New Sandwiches)
午前10時、今朝はひんやりと空気の縮こまっているようで、作業部屋の窓から外を見下ろせば、細かい雨に降られて傘をさした人が通り過ぎていくところ。風は冷たく湿っている。目覚めてすぐに、豆乳で割った安いコーヒーを流し込みつつ抜き書き作業に向かい(捲り終えた本から目ぼしいフレーズや単語を拾い「Evernote」というアプリケーションに打ち込んでいく。目覚ましにちょうどいい日課である)、それから朝食にパンを二切れとヨーグルト……パインとシークワーサーが入った酸っぱいやつ……を食べ、また机に戻ってきた。
お腹がごろごろする。ごろごろ。わたしを乗せ、キャスターはスムースに滑る。最近仕事用の椅子を新しいものに買い替えて、なぜって背もたれのリクライニングが破損して倒れたままになってしまい、まともに座ることが困難だったからなのだが(それでも半年以上そのまま使っていた)、買い替えたとたん姿勢がずいぶん楽になり、おかげでちょぴりと仕事の効率が上がったように思う。仕事と言っても、メール返信や、こうした記事の執筆やらの雑事であるけども……。なんにせよ心地よく手を動かせることは喜びである。
机の上では「パロサント」という香木を燃やしている。文字通り木の焼ける匂いが煙と共にたちのぼって、この木の焼ける匂いというのがわたし個人にとっては存外ノスタルジックな効果を帯びているのだった、以前も書いた通り生まれ育った九州の実家には薪ストーヴが据えられていて、薪ストーヴは木を燃やすわけで、だからその香というのが生活をすっぽり覆う季節があり、パロサントを燃やせば即座にそうした故郷の時節へと引き戻されるような、安心するような心持ちがあった……実家を思い出して安心するというのはずいぶん甘たれた人間であるようにも思うが……。
タバコの煙はほんの少し吸っただけでも咳き込んでしまうほど苦手であるのに、パロサントならば胸いっぱい食んでも平気なのだからおかしい。どちらも健康被害は変わらないだろう。じっさいタバコのように咥えてみたこともあるけれど、すすにまみれた樹皮の、苦い味がした。美味しくはなかった。火災報知器が鳴らないように気をつけながら、日に何度も燃やしている。
しとしと雨は止まず、街はじっと息をそばだて黙りこくっている。先ほどごみ収集のトラックが場違いにうるさいメロディを流しながら通り過ぎていったが、その余韻もすぐさま封をされてしまったようだった。
雪とは「可塑的」なものだ。可塑性が降ってきて、世界を覆いつくす。なぜ雪の日に人は興奮するのか。それは、すべてがリセットされ、いまならゼロから作り直せる、という幻想を目の当たりにするからだ。白銀の世界とは、可塑性が回復された世界である。雪遊びとは、もうひとつの世界の模型を作ることである。(千葉雅也『アメリカ紀行』文春文庫/p.144)
哲学者・千葉雅也氏の紀行文集『アメリカ紀行』で見つけたこの文章をわたしはとても美しいと感じたが、そうだ、今日のような雨にだって近しい幻想を見出すことは可能かもしれない。地上に「汚れ」「穢れ」のようなものが蔓延っているとして、一時的であれそれを上から塗りつぶしてしまうペンキのような興奮を与えるものが雪だとすれば、雨はそれを覆うわけでもなく、ただ洗い流してくれる掛け水。シャワーである。ぜんぶぴかぴか綺麗にしてくれるような。浄化への憧憬がある。
そういえばさいきん、自宅から駅前へと向かう途中の並木道にムクドリの大群が巣食っていて、毎日大量の糞を道に落としている。もとは小洒落たレンガ色の石畳がいちめん白く染まってまさに雪のごとくであるが、とはいえ糞は糞であるからまっさらでもなく黒々とした排泄物の主張が同居しており、また凄まじい匂いもあるので、そこを通るたびについ顔をしかめてしまう。なかなかの鳥害だと思うのだけれど、担当は市なのか区になるのか、わからないがあまり対策されているふうもなくって、おそらくは清掃するにも日々イタチごっこなので放置されているようだ。今日の雨で多少は洗われただろうか。
しかし、糞でもって街を塗りつぶしていく、これもムクドリなりに「可塑性」を「回復」するための行動なのかもしれない。そもそも彼らが街中で群れをなすようになったのも、開発で野山を追われた結果であるという話も聞く。迷惑を被っているのはわたしたちではなく、向こうなのではないか。動物もみな、世界を作り直したいという願いを持っているのだろうか。
すべてが理想通りに、美しく、綺麗なすがたであることはない。ムクドリなんてまだ可愛いものだが、人間どうし誰も彼もがおのれの幻想を実現すべく糞をまきちらかしているような状況には辟易する。すべてを覆い隠す再生の雪も、洗い流してくれる浄化の雨も、けっして降ることはない幻想だと知りながら、ただこんな小雨の日には、そのいっときの静けさがいつまでも続いてほしいと願う自分がいる。
いま、はたして沈黙と対話するすべはあるだろうか。後戻りのできない方向へと突き進む時代の、不安にまみれた時間のなか。止まぬ無数のさえずりから離れて?
じっさいこの机の上でできることなど限られているだろう。座り心地のいい椅子も、都合のいい郷愁を起動するパロサントも結局はささやかな慰みものにすぎないが、それでも、汚れと清浄の合間で腰を降ろしじっと口をつぐんでみる、そのために少しばかり役立ってくれるような気もしている。ほんの少しだけね。
おしらせ
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