#31 ABCからある病室へ(All-New Sandwiches)

東京・青山に「青山ブックセンター」という書店がある。広々としたワンフロア、分野別につくられた棚は話題の新刊から少しマニアックなZINEのようなものまで幅広く選書され、ぐるぐる歩き回っていると、次から次へと興味をそそられる表紙・背表紙に出くわす。毎度、なにか買わずには出られない、不思議な魔力の満ちた場所だと思う。毎年夏に開催される「200人がこの夏おすすめする一冊」という選書フェアには、恐れながらも去年と今年と、二年続けてmaco maretsとして参加させてもらっている。

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本来は書店に対する思いなど綴ってしかるべき導入ではあるけれど、ここでお話ししたいのは、その「青山ブックセンター」と同じフロアにあるお手洗い……や、これがなんの変哲もないトイレなのだが……に入るたび、突然に喚起されるある断片的な記憶について。

はじめてその場所を訪れたとき、そこに満ち満ちるある芳香に覚えがあり、思わずどきりとした。業務用だろうか、そっけないなかにわずかながら柑橘の気配をまぶしたような、しかし爽やかというよりは、無言のうちにあらゆる毒素や臭気を封殺してしまうだけの重量、圧迫感をもはらんだサニタイザーの香り。それはかつて何度となく訪れた、地元・福岡の小さな病院で嗅いだものとまったく同じものだった。

名前も忘れてしまった、そこは決して実家から最寄りの病院ではなかったけれど、いわゆる「かかりつけ」と言うか、奇妙な縁のある場所であった。九歳(小学三年)と、十七歳(高校二年)のころと、二度もそこに入院したのだ。一度目は車の交通事故、二度目は虫垂炎で運び込まれた。外傷と、内臓の疾患と、どちらも命に関わるほどの重傷ではないにしろ、それなりの手術と入院期間を要するもので、それである期間、わたしはその病院で過ごした。

繰り返しになるが、そこは小さな病院だった。入院患者の数も、そもそも病室も多くなく、そのなかで子供の入院患者はさらに稀だった。たいてい、同じ病室には静かに眠っているばかりのお婆さんがいるくらいで、静かで、さみしい雰囲気だった。九歳のわたしは、見舞いに来た家族が去ったあと、孤独感に耐えきれず一度か二度、枕元のナースコールを押して、やってきた看護師にむかって「父さん母さんはどこでしょうか」と話しかけたりした。もちろん、ほんとうは両親が帰宅したこともわかっていたけれど、看護師は優しく答えてくれた。十七歳のわたしはさすがにそんなことはしなかったが、代わりに手に入れた携帯電話で友人にメールを打ったり、ブログサイト(Amebaとか、mixiとか、当時流行していたああいうやつ)を周遊した。それも飽きると、体の調子がよいとき、点滴が外れているときはベッドから抜け出して周囲をうろついた。

病室を出てすぐのところに、ナースステーション、というにも大袈裟な、看護婦さんが詰め込まれた番台のような場所と、談話スペースがあった。古い型の(と言ってもその当時は最新だったのか)テレビが控えめな音量でついていて、それから金魚の水槽のようなものも置いてあったかもしれない。壁際の書架には、入院患者の退屈凌ぎにと、これまた古ぼけた漫画や文庫本の類が詰め込んであった。だいたいが『ゴルゴ31』、『ルパン三世』、それから『美味しんぼ』とか、そんなラインナップだ。とくに、不思議と料理漫画が充実していて、先に挙げた『美味しんぼ』のほかにも『クッキングパパ』とか『寿司の将太』なんかも揃っていた。なんだか心惹かれるものがあり、わたしはそれらの料理漫画を好んで読んだ。

病院食にうんざりしていたとかそういうことではない。海原何某が唸るほどではないにせよ、たとえば焼き鮭なんかが数日に一度出てくるのはとても嬉しかったし、美味しくいただいた記憶がある。ただいつも、食事中も、食べ置いてうとうととベッドに横たわったときも(なにせ病院は消灯時間が早い)鼻腔にひっかかっていたのが、あのサニタイザーの香りなのだった。

(それはきっと病院内のあらゆる場所に振りまかれていて、あらゆる事物がその芳香にラッピングされていた。)

サニタイズされた焼き鮭。サニタイズされた白ごはん。減菌・消毒された、病院というあの空間をきっちり満たした、厳粛で、同時に極めて業務的で空疎な香り。何日も病室で過ごすうち、自分の内側にまでその香りが染み込んでくるようだった。サニタイズされたベッド。サニタイズされた部屋。サニタイズされた自分。消毒されて。それも治療のひとつだろうか。

なにかにあてられたか、退院を待ち遠しく思う日もあれば、このまま、ずぶずぶとこの漂白された場所に溶け込んでいくような、まっさらな毎日も悪くないような気がする日もあった。ほんとう、静かで、まっさらで、ほんの少しだけシトラスめいた日々。たった二度かぎり、短い、日常から隔絶された数週間のこと。その場を去るとき、どんな気持ちだったかは覚えていない。

ときに、嗅覚は記憶の組成と強く結びついているという話を聞いたことがある。わたしにとっては青山ブックセンターの、あのビルの地下一階のトイレが(そこに満ちた香りゆえに)福岡の小病院へと直結する通路となった。個室で便器に腰掛ければ、いまも自分があの建物にいるのではと錯覚するほどだ。大げさなようだけど、入院というイベントそのもの、著しく身体を壊した経験そのものがわたしという人間の生きてきた時間においてはそれなりの地位を占めており、だからこそ香りひとつをきっかけにしても強く、迸るようなかたちで想起されるのかもしれない。

その時間を振り返ることになにがしかの感慨が生まれることもない。ただ、青山ブックセンターへの訪問はそのままトイレへ、そして少年期のある時間をすごした病室での記憶へと、いびつな連関を成していて、いまも顔面や、下腹部に残る手術跡がわずかにざわつくような、というとまた大げさかしらん、とかくただのショッピングとは異なる歩みをもたらすのだった。


おしらせ

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