#41 ノーベンバー・ランド(All-New Sandwiches)

11月。おとついまでは福岡にいた、いまは神奈川の自宅に帰ってきた。ここ2ヶ月間ほど続いた毎週末のライブ遠征もひと段落し、少しだけ落ち着いた心持ちでいる。や、落ち着いてはいるが、なんだか同時にそわそわもしていて、これが11月の感であるようにも思う。昼夜問わずぴったりと、茫漠とした寂しさ・わびしさが張り付いたような時間がある。今朝だって嫌な夢をみて、涙を流しながら飛び起きたのだ。

嫌な夢と言って、以前書いたようなライブで失敗する夢ならまだよかった。今朝は身内を亡くす夢。ありふれた、単純な内容ゆえ、忘れ去れない。夢の中とはいえ、あんなに泣いたのはひさしぶりではなかったか? 「もっと一緒に過ごせばよかった」そう口に出していた、それはわたしだけれど、わたしでない、誰か。泣いていた。振り払うように目を開けると冷たいベッドの上にいて、朝の6時。毛布がはだけていた。目をつむってみたけれど、二度は寝付けなかった。そっと立ち上がって、冷蔵庫の紙パック・コーヒーを飲んだ。

スリープモードになっていたiMacを揺り起こし、カレンダーとメールのチェックをするのが朝いちばんの作業。今日のスケジュールは? なにからはじめる?

そういえば、ちょうどいま読んでいるエッセー『本を書く』(アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳/田畑書店)に、「スケジュール」について書かれた一節があった。

スケジュールは混乱と気紛れから守ってくれる。それは日々を逃さないための網だ。それは時間の区切りに労働者が両手でつかまって立ち働くことができる足場である。スケジュールは理性と秩序の模型である。それを望み、でっち上げ、そして現実のものにするのだ。それは時間の破滅の中に仕掛けられた平和であり、安息の地である。それは何十年も後に、まだ生きている自分が乗っているはずの救命ボートにもなる。毎日が同じで、あなたはあとでその連続を、ぼんやりした、しかしながら強力な模様として思い出すのだ。

『本を書く』(アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳/田畑書店/p.22)

著者のアニー・ディラードは米国の小説家。執筆の作業は、際限のない「混乱と気紛れ」にさらされているに違いない。「救命ボート」たるスケジュールの助けがなければ、「時間の破滅」に飲み込まれてしまう。「理性と秩序の模型」とは少し大袈裟なようにも読めるけれど、しかし、その通りだと思う。スケジュールとは、予定。予め定めておくこと。未確定でもとりあえずの自分を、先の時間に投げかけておくこと。それがその朝からみればあくまで未来そのものではなく、願望や諦念をはらんだ「模型」でしかないとしても、それを「足場」としてこそ「立ち働くことができる」。「立ち働く」ことによって「現実のものにする」のである。

ついあらたまって、自分のカレンダーを確認してみる。11月。グリッド状に並んだ日付の箱箱は、あまり埋まっていない。もともとこの期間は腰を据えて新しいアルバムの制作に着手しようと決めていて、それでデモ・ビートの準備もあるのだが(今回一緒に曲を作ることになった方から送られてきたものが)、これがスルスル書ける……わけにはいかず、その「書ける」状態に持っていくにはおそらくけっこうな無駄、無駄と思えるような時間を踏まねばならぬことは、なんとなく経験的に理解しているつもり。

メロディ、歌詞、どちらも、これだ! と思えるフレーズが飛び出すまで、何時間でもマイクの前に座り、半ばやけくそに歌い続ける。飽きたら散歩に出たり、本を読んだり、ゲームをしたり、あるいは誰かほかの人間の音楽を聴いてみる(ただし、とくに日本語の音楽は、意識せず剽窃してしまうときがあるから聴かないようにしている)。その繰り返し。それらのいちいちを予定としてスケジュールに書き込むわけにもいかないので、よって、カレンダーはがらんどうのままなのだ。

しかしこれでは「理性と秩序の模型」としては不十分かもしれない。より習慣化された、ルーチンワークとでも呼べるようなフレームをそこに立ち上げなくては、雑念のカオスに打ち勝つことはできないのだろうか? 日々・一日一日、決まった手順を繰り返すこと。それには相応のエネルギーが伴うはずだ、「模型」を「現実のものにする」ために、まず「模型」を「模型」として保つために、わたしは日々を遂行しなくてはならない。あっ、いま、「すいこう」と打って変換候補のいちばん上に「推敲」と出た。「日々を推敲」するとは、的を射てやしないか。同書『本を書く』からうかがい知れる、作家アニー・ディラードのストイックな仕事ぶりにも重なるようだ。

や……日々のスケジュールをどう定めるか、カレンダーのマス目をどう埋めるか考え出すとキリがないけれど……もう少し目線を引いてみると、自分が「maco marets」という名前で毎年曲を作り、アルバムをリリースしていること。作品のクオリティはさておき、「世に問い続けている」ことそのものが、(おそらくはこれからもある程度続き、それなりに長い)人生のなかで、「時間の破滅」に絡め取られないための精一杯の抵抗であり、自分なりに、日々に秩序をもたらさんとする手段となっているような気がしてくる。

いまのわたしは他に仕事もしていない。「maco marets」として作品を編むその作業をやめてしまえば、今度こそスケジュールは真っ白になる。そうなったら、どうなるだろうか。もちろん死にはしないだろうが、押し寄せる空白の圧迫に呆然としながら、口をぱくぱくさせるばかりだろうか。

だがそもそもが、ラッパーになっているなんて(!)、こんな予定もなかった。わたし自身も、周囲の人間も、考えてもみなかった方向にハンドルを切ったのだ。こうなってしまったからには、「その連続を、ぼんやりした、しかしながら強力な模様として」見出すために、過ぎ去る日々を逃さないために、それがヘンゼルとグレーテルの落としたパンくずのごとく微小で見向きもされぬ痕跡であったとしても、繰り返しのなかで言葉を紡ぎ続けるほかはない。

アルバムはつぎで7作目になる。聴く者はとっくに飽きてしまったかもしれない、同じようなものをいくつも作って何がしたいのか、そう言われるかもしれない。いつかそれらの作品が「強力な模様」となったとき、しかし、そのときでは遅いかもしれない。

11月の寂寥は、がらがらと崩れいく時間を、おのれの足元を否が応でも思い出させる。朝に見た夢がまた浮かぶ。「もっと一緒に過ごせばよかった」と、泣いていた。それはわたしだけれど、わたしでない、誰かだったはずだ。


おしらせ

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