#42 陶酔を満たして(All-New Sandwiches)
ニュー・アルバムに収録する楽曲をつくりはじめている。maco maretsの制作スタイルは、自分のほかにトラック・プロデューサーがいて、まずはじめにその方からもらったビートがある。わたしはそれを聴いて歌詞とメロディを書き、またプロデューサーに打ち返す。歌に合わせてサウンドをアレンジしてもらう。必要があればまた歌を修正する。その往復のなかでマスター音源が完成する。
0から1を作り出す作業ではなく、イメージの起因するところのビート、これを他者に預けているという意味では、ちょっぴしラクをしていると言ってもいい(むしろ、この分担体制だからこそ、毎年のようにアルバムを発表するという荒技も可能になっている面がある)。自分でビートから組み出したら、どれほどの時間をかけても納得できないまま、作品の「完成」を見ることなく終わってしまいそうだ。それこそ際限のない詩作という営為に区切りをつける、ひとつの有限化の手段として、他者に預ける、他者の手によって設られた音のうえで歌を書く、というのは有効なのだと思う。
はじめから限定された場所で歌を書くというのは、安心だ。登山に例えるならば、山頂への道筋が一応は「見えている」、そんな状態だろうか。実際に登り切れるかどうかは別として、コンパスは手元にある。行く道を定めることができる。
もしもなにも持たぬまま「自由にいけ」と言われたら。「まあそもそも、山を登る必要もないかもしれないけどね」、そう突き放されたとしたら、どうするだろうか。わたしならただ呆然として、いつまでもその場に立ち尽くしてしまいそうだ。それはあらゆる表現の前につきまとう恐怖。孤独感である。
他者との共作はもちろんある窮屈さをも伴うけれど、思い通りにならなさ、一定の不自由さを持ち込むからこそ、空白の自由を前にしてその恐怖をやわらげる効果をもつ。孤独感をうすめてくれる。心強さがある。これは逃走だと言われればその通りかもしれない。表現の孤独に立ち向かうことを放棄している、と指差されたらなら、返す言葉もない。これがmaco maretsの抱える負い目のひとつだと、自覚はしているつもりである。小説を書きたい書きたいと言って、けっきょく書けずにいる理由も、つまり己の身一つで空白に投げ出す、投げ打つ? 投げ出される……その覚悟や忍耐の欠けているからこそかもしれぬ。
リフレクション。わたしがmaco maretsとして書く歌は、誰かのつくった音を目の前に置いて、その鏡にうつったなんらかのビジョンをスケッチしたようなものだとも思う。鏡がなければ、己の姿を見ることもできない。音が鏡。鏡は他者。他者は……。
わたしは日ごろ、「こんな話題、内容の歌を書けたらいいかもな」とキーワードをメモしておくこともあるが(またあるときは詩のフレーズとして書き留めることもあるが)、そうして溜め込んだ「テーマ」たちは、そのままの形で日の目をみることはほとんどない。なぜなら、音楽を支配するのはまず音であり、言葉の前に音がある、だからこそ、その音を「テーマ」にあわせてデザインする(できる)のでないかぎり、あるいはたまたまある音と「テーマ」がぴったり合致するのでないかぎり、ひび割れのようなものが生じる。音と言葉との断層が、楽曲を破壊してしまうのだ(ただ、そうした亀裂の不格好さや違和感を意図的に演出することはある、ということは言い添えておきたいけれど)。
鏡たるビート、それも他者から送られたもの、の前に座してはじめて、どんな言葉が飛び出してくるか。それが「正しく」音楽として、歌曲の言葉、もっといえばラップの言葉としてリリシズムを獲得するためには、注意深く音と意味とのバランスを取る必要がある。
先日「音読部」のpodcastで読んだ萩原朔太郎のエッセー『流行歌曲について』にはこんなくだりがあった。
なぜなら音楽が歌詞を本位とすればするほど、音楽としての散文化(リリシズムの喪失)を意味するからである。つまり言へば聴者は、それを旋律の美しさに於て聴かないで、歌詞の面白さに於て聴き、真の音楽的陶酔とはちがふところの、別の散文化の興味で聴くからである。現に「あなたと呼べば」の如き唄が流行するのは、大衆が既にその心のリリシズムを喪失して、音楽でさへも、散文的な興味で聴かうとするところの、現代社会の時代的傾向を実証してゐる。そして流行歌曲の作家が、機敏にこの大衆の向ふ所を捉へたのである。それは流行唄としての新しいエポツクメーキングであるか知れない。しかし本質的に観察して、音楽精神の時代的没落を語るものであり、併せて現代日本文化の、救ひがたき卑俗的低落化を実証するものである。
萩原朔太郎『流行歌曲について』(参照:青空文庫)
「現代日本文化の、救ひがたき卑俗的低落化」とはさすがに言い過ぎな気もするけれど、ここに書かれている音楽の散文化に対する指摘には思わずハッとさせられる。
なぜだろう、わたしは、歌詞に散文的な意味が充填されていることは善いことだとどこかで信じていたようだった。しかし言われてみれば、それは確かに「旋律の美しさ」とも、「真の音楽的陶酔」とも、関係のないことかもしれないのだ。
さきほどわたしが書いた「音と意味とのバランス」も、そのような気づきからより意識するようになった点である。もしも散文的なありようを突き詰めるのならば、畢竟、音楽という形式を捨て去るのがもっともかんたんだ。「散文的」に書きたいなにか、書ける何かがあるなら音楽にしなくてもいいだろう。それでも音楽という形式を選んだのなら、そこには「音楽的陶酔」を欠いてはならないはずではないか?
はたして「音楽的陶酔」の真髄をつかんでいるとは到底言い難いわたしだけれど、ラップの歌詞をつくっていく上でそれが音に寄っているか、意味に寄っているのか、その平衡感覚ならば多少は身についているつもりである。その上で言うならば、とくに最近のおのれはだいぶ意味によせた、散文的な(つもりの)歌詞の書き方をしていたような気がしている。それを悪しざまに言ったり、後悔したいわけではない。けれど、とくにさいきんライブ・ステージに復帰し、音楽的に至高のパフォーマンスとはなにか、考え巡らせたとき、maco maretsには「真の音楽的陶酔」が……というとそれも高慢か、「真の音楽的陶酔」を望むような「態度」が……希薄であったのではないかと思い至った。
根拠のない物言いになるけれど、「態度」、アティチュード如何によって作品に現れる際というのもあるはずで、それは手つきに宿り、そしてその手つきが筆跡のようなものとなって残り。その痕跡は作品を受け取るものの指先に、異なる手触りをあたえるだろう。
繰り返しになるが、どうにも自分には、音楽としての完成を目指す態度が足りていなかったのかもしれない。そしてそれはもしかしたら、最初に書いた通りでmaco maretsの作品制作が最初の「音」を他者の手に委ねているがゆえかもしれない。「詩的っぽい歌詞が書ければそれでよい」とか、それくらいの浅薄さでいたからかもしれない。
だいぶ回り道をしてしまった。要は、新作の準備におけるさしあたっての目標は音楽的完成を「態度」したうえで、いったいどんな歌を歌えるだろうか、己に問いつ答えつ制作を行うことなのだった。
もちろん言うは易しで、じっさい次の作品がどの程度「真の音楽的陶酔」を達成しうるかどうかは怪しいところである。何度も書いた通りで、それがいったい何を指すのか? わかっているわけでもないし、それにさっきはラクをしている、と言ったが……他者の手によって和らげられていたとしても、登山の道のりは、鏡との対峙は、いずれもやはりか恐怖を伴う、孤独を伴う。人一倍臆病な性分の自分が、よくもまあこんなことを延々繰り返しているものだ!
7作目のアルバムがかたちになるのはまだ少し先のことだけれど、なんにせよ「完成」したものがすべてなんである。 こんなところで先立って言い訳を並べるよりも、おのれのリリシズムの回復を願い、音に身を委ねるべきだろう。
まずは思うさま、ほつれも気にせず言葉を並べてみる。その先に、少しずつ彫刻されていく興奮が、陶酔が、あると信じて進むしかない。
おしらせ
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