【#12】かたくでこぼこのざらざらな【Sandwiches'25】

 
 
 
 

井戸川射子・著『曇りなく常に良く』をめくり終えて、今は多和田葉子・著『言葉と歩く日記』を傍らに置いている。いずれの作家も、日本語の定型にとらわれず、のびやかに、言葉の自由な躍動をみせてくれるところが好き。硬直したおのれの言語器官もひらかれていくような、つめたく新鮮な水をあおるような快さがある。

それにくらべて自分のテキストはいつまでもぐずぐずしていて、この第12回も何度書き直したかわからない、ただ粉っぽいため息がもれる。ずびずび。ついでに鼻水も。花粉やら、黄砂やら、ほとんど視認できない粒子の存在がこれほどまでに影響を及ぼすのだから、人体もずいぶん繊細だ。ざらついた春のムード。

汗ばむ陽気にTシャツ姿で過ごせることを喜び、ところが冬のあいだは長袖で隠されていた腕のちょっとしたほくろや体毛がいやに目に付く。薄着は楽、とはいえこうして見える部分には余計に気を使わねばならない、そう思わされているだけのことでも、カメラに写り込む手の甲の、細かな疵までもがどうしてうとましく、反対の手でそわそわと撫でてみれば妙に油っぽい。しっとりとしていて、同居人にもよく言われる、「なんか手がつやつやしているね」。ひとより手に多く汗をかく方だ、そのせいか。乾燥しているよりはましと言えるか。

とりあえずはまだ、と出かけるときは長袖のスウェットなんかを着ている、でも結局日中は暑くて気づいたら袖をめくり上げていたりして、そうするとまたこの腕、固くてぶかっこうな、まばらな毛の植わった肌の赤っぽさ。う、と袖をおろす。また暑くなってめくる、またおろす。その繰り返しだ。

多少の体毛とか、肌の凹凸なんてどうってことないのにね、思春期から育て上げられた自意識を引きはがすのも簡単ではなくて、根深い、毛の一本一本のように、抜いても剃ってもまた顔を出してくるので困る。いや、困ることもないが、自分が気にしていなくても他人に気にされていたらいやだなとか思う、それって気にしているってことじゃない? そうかもね、って脳内会議、結局今夜あたりシェーバーで剃ろうと決める。

やるなら、風呂場の排水溝を詰まらせないようにしなければならない。体毛と流れた石鹸のかすやなんやかんやが渾然一体となったヘドロ状のそれを捨てるとき、素手でさわろうとすると同居人は少し怒る。ティッシュ越しでもあまり愉快そうではない、ちゃんとプラスチックの手袋でやってほしいと言う。「目に入ったら、失明するよ」。本当だろうか、とわたしはびくつきながら、でも面倒くさいときはやっぱり素手でやる。失明を引き起こすような凶悪な「なにか」が自宅の風呂場から発生するはずはないとたかをくくっているのだ。さわった後はちゃんと手を洗っているけれど、じっさい、注意されるほど危険なのかしら。調べてはいない。

そんなふうに、おおざっぱな認識ですませている物事が多いせいか、それが人相にまであらわれているのか、SNSで「maco maretsって多少の雨でも傘とかささなそう」と書かれたことがある。だいたい当たっているのでなんとも言えないが、見知らぬ他人からそういうふうに見えているのは問題だろうか、そのときはすこし考え込んでしまった。雨でも傘をささない人って、つまりどんなイメージ? あんまりポジティブではなさそう、たぶんだけど。体毛も剃ったりしなさそう、とか? うるさいな、いちいちジャッジしてくれるなよ、と思うが。

ふるまいも、それから容姿だって、他人の基準にあわせる必要などないはずなのに、気にしないというのはなんでか難しい。体毛だけじゃなく。ニキビ肌とか、一重瞼とか、歯並びとか、贅肉とか、あるいはペニスのサイズとか。世に溢れる(complex)広告において「悪しき症例」とされる要素の全部が自分には当てはまっているように感じる。そうした広告を見ても「いや、わたしは完璧、大丈夫なんで」と思える人もいるのだろうか、どこかにはいるのだろうが、でも人間の肉体は3DCGのようにデザインされてはいない、傷やゆがみのない体なんてないだろう、きっと。言われたら気になるものだ、どんな美貌も、まなざしの暴力の前ではどれほどもつかわからない。そういう風に見られ、また見ているだろう。

先に挙げた『曇りなく常に良く』の登場人物のひとりである「ダユカ」は、姉に指摘されたことがきっかけで、自分の鼻の形をずっと気にしている。見てほしくない、その気持ちが無意識に、鼻を手で隠す動作としてあらわれ、そのことが一層他人の目を彼女の鼻に向かわせることになる。隠せば逆効果ということか、やはり堂々としていれば、それでいいのか。他人のことなら「気にしすぎだよ」と気楽に言えるのに、自分ごとだとそうもいかない。それもわかりきったことではある。

今さら自分の容貌にあれこれ思うこともないけれど、どうしてもステージに立つ、衆目に晒される機会の多い仕事である。映像もあちこちに残るから、そこでの自分がどんな顔をしているのか、無視しようにも「確認お願いします」と送られてくる、一応は観る、しかし目はなるべく焦点を結ばないようにゆらゆら泳ぐ、直視はできず。

この体が気に食わない、と言ったってしようもない、耐えられないというほど大きな不満もない。それでも、自分で自分をまなざす居心地の悪さは厳然とある。つぶさにみればみるほど、そのありようが得体の知れないものだとわかってしまうからか。他人ならわからなくてもいい、自分がわからない、それが怖いのか。

ふと腕の毛を抜こうと爪を立てる。短く、しなやかなそれはうまく捕まらない、思う通りに抜けない。あ、一本抜けた……。毛。また毛、毛は無数に生えている、それを無くすことができるとは到底思えない。まっさらの肌だって幻だろう、きっと死ぬまででこぼこだろう。(2025.3.29)

 
maco marets