【#11】いつの間にかそこにいるもの【Sandwiches'25】

 
 
 
 

今日も朝から大粒の雪が降っていて、微かな頭痛とともに目覚めた。音が聞こえるような雪だ。風は強いし、寒い。外に出かける用事がなくてよかった、と安心する。同時に、いくつかこの日に届くよう注文していた買い物がよぎった。この天気では、予定通りに到着しないかもしれないな。別に急ぐ荷物でもないので(機材ケーブル、シュレッダー、予約していた本がいくつか)こちらは構わないのだけれど、配送を担当する立場はさぞ大変なことだろう。どうか安全に、と思う。

3月はなんだかぼんやりしている。あらゆることが緩慢で、スロウな感覚。理由はよくわからない。本もあまり読めていないし、音楽も聴かない。どろどろした、澱のようなものが溜まっていく気配だけがある。不安定な天気のせいだろうか。外出が少ないからか、どこか塞ぎ込んで。とはいえ、もう少し暖かくなれば何か変わるのではないか、とそこだけは妙に楽観的で、この鬱々としたムードも一過性なものとたかを括っている。落ち込むときは、落ち込むものだ。長引いたら、そのとき初めて慌てたらいい……。

そう、もう少し暖かくなれば、きっと。大丈夫になるのだ。この文章を打っている仕事机の足元はずいぶん冷えて、集中力散漫なのも多分そのせい。ここ最近は、隙あらば動画サイトを開き、キーボードやマウス、デスク周りのガジェット・レビューなどを観ている。もっと素敵な、洗練された道具を手に入れれば、自分の作品も何かしら良くなるだろうか? 小洒落たデザインの高級キーボードをタカタカ叩く自分を想像する。それで「素敵な」詩が書けたらいいけど、うーん。そんなこともなさそう。わかっていて、でもなんだか惹かれてしまうものなんである。

書く道具について。それは人によって千差万別で、たとえば詩や小説を書くという知り合いを数人思い浮かべても、パソコンで書く人、スマートフォンで書く人、あるいは原稿用紙に手書きという人もあれば、ちょっと変わり種で「ポメラ」という文字入力専用のガジェットを使っている人もいる。ハードはもちろん、ソフトやアプリケーションも多様だ。

受け取る側はいちいち「これはパソコンっぽい文章だなあ」とか考えながら読むわけもないが、でもどこかで読んだ話、妙に小難しい言葉を使うのはパソコンの漢字変換ソフトの影響があるとかなんとか。たしかに、自分の頭には入っていない漢字や熟語もパソコンならスペースキーひとつで弾き出してくれるから、つい使ってしまうことはあるかもしれない。身に覚えがある、先ほど書いたばかりの「澱」(おり)もそうだ。さんずいに、との。単純なこの漢字も、恥ずかしながらわたしは覚えてはいなかった。

普段、手書きで文章を綴るということはあまりない。詩や歌詞を書くときに、思いついたフレーズを殴り書きのようにメモすることはあるけれど、それも最終的にはパソコン上で打ち直して推敲をすることになる。

たとえばさっきの「澱」だって、脳みそに浮かびあがった瞬間は、(漢字で覚えてはいないのだから)それはまだ音そのもの、響きだけの状態だ。だからこれが手書きの文章ならば、きっと「オリ」あるいは「おり」と、素直に仮名文字で書いているはずなのだ。それをパソコンの画面に向かって、「o」「r」「i」と打ち込む、次いで「おり」とその下には変換候補が示される。もしかしたら「檻」とか、「下り」とか、候補は色々あるだろう。それでも「澱」の一文字をわたしは選ぶ(覚えていなくとも、どの漢字が正解かはだいたいわかる)。結果、最初からこうでした、とばかりにその字は文中にしっかと打ち込まれる。ただ、ほんのりと異物めいた手触りを残して。

そういえばいま、とある企画のために、自分の作った詩集(『Lepido and Dendron』)を素材に、文中の語句をバラバラに分解するという……言うならば詩の「Remix」のような……作業を試みている。自分の詩を文字通り切り刻んで、パズルのように並べ替えてしまう。それで新たな詩を作る、というものだ。

「嚥下する」「のびやかな筋肉が」「煽動者」「馬の背」「永続性」「ゆらゆら」「舟を曳いて」「花」「鉄筆」。

あわれ、まるでビーズのネックレスを解くみたいに、か細い糸でかろうじて繋がれていた言葉たちがナンセンスに四散していく! 残酷なその過程で、なんとなく手馴染みのよいブロックと、なんだかよそよそしい、つめたい手触りのブロックとがある気がした。そしてその「よそよそしさ」の理由は、全てとは言わないけれど、多少なり、今日話題にした「書く道具」の影響下にあるのではないかと思ったのだった。それらはまさに、スペースキーの連打によって取り出された語彙なのかもしれなかった。

今この瞬間も操作しているわたしのパソコン、MacBook Air(13インチ、M3、2024)のアシストでもって導かれた文字のかたち。それは、入力した瞬間こそなんらかのひらめきでもって迎えられたはずだけれど(詩や歌詞の場合、変換のいたずらが思わぬイメージを想起させることもある。そのランダムな感触を作品に持ち込むことは、想像の範疇を超えた異化作用を生みうるはずだし当然「アリ」だと思う)、時間を経て、ひょんな思いつきによって文のつながりから取り外されたとたんに、ふと、「なんだかピンとこないなあ」などと、その輪郭を見失うことがある。

そこでは一つひとつの言葉の理由が問われているようにも思う。なぜ、この言葉を選んだのか。どうしてこの字でなければならないのか?

知らずと道具によって誘われた語があり、テキストがあり……このことにどれだけ自覚的でいられるのか、それが可能かもわからないが、ただ素朴なふうに結論を急げば、たまには別の方法で言葉を綴ってみるのもいいかもしれない。それこそ初心にかえって、パソコンをやめて、原稿用紙に手書きで、とか。いつも手書きの人だったら、ペンを鉛筆に変えてみてもいい。

普段使いなれた道具と離れた場所でなお、自然と書かれる言葉たちがあるかどうか、あるとしたら、どんな言葉か。どんかかたちをしているのか。頼りなくとも、何か書けるだけ御の字だ。試しに手元のペンを握ってみたけれど、紙の余白は残酷なほどに広大で、一言目をどう始めたらいいのか、迷わずにはいられない。言葉を紡がんとするその指先の感触が変わってはじめて気づくのは、「何か書ける」という欺瞞そのものだった。はじめから何も書けちゃいない。それだけが本当なのかもしれない。

暖かくなれば、暖かくなれば。このかじかんだような指先がぴくりとでも動いてくれたらいいけれど、それはやっぱり、わからない。(2025.3.22)

 
maco marets