【#10】もしもし、タートル【Sandwiches'25】
このところ、けん玉にはまっている。特別な理由があったわけでもないのだけど、先日訪れた旅先の土産物屋で売っているのを見つけて……それはおそらく海外から来た観光客向けの商品なのだった……なんとはなしに買った、で、やってみたらこれがなかなか楽しい。暇を見つけてはかつん、かつん、玉を投げ上げ過ごすようになった。
けん玉。その素朴なおもちゃに触れた最後はいつだったか、下手をすれば小学生くらいまで遡るのではないか。その他にもヨーヨー、竹馬など、クラシカルな遊びに興じた時期が確かにあったはずだが、いつしか遊戯王カードとか、ビーダマンとか、ベイブレードとか、その当時最新のおもちゃに取って代わられて、それきりだった(ベーゴマからのベイブレード、のように、バトルホビーとしてリファインされたけん玉があればと面白かったなと思うけれど、元々の形が完成されているから、難しいか)。
あとはけん玉と聞いて浮かぶものと言えば、昨今、年末の紅白歌合戦でけん玉のギネス記録に挑戦するコーナーがあるよね、それくらい。歌の印象を置き去りにするあの企画の是非はともあれ、シンプルがゆえに万人のスリルを掻き立てる、けん玉競技のポテンシャルが遺憾無く発揮されている場ではあっただろう。呼吸を忘れるような思いでテレビを見つめたことを思い出す。そこに映る巧者たちは危なげなく玉をキャッチしていたけれど、実際にやってみて初めて、その難易度、プレッシャーのありようを知った。
そう。たった今書いたようにけん玉はシンプルだ、しかしやはりか、簡単とは到底言い難い。
玉を投げ上げ、皿(玉を受け止める、すり鉢状のくぼみ部分のこと)に乗せる。
言ってみればそれだけ。ところが、一見単純なその動作を成功させるには、呼吸を落ち着かせ、全身をしなやかに、伸びやかに保つ必要がある。けん玉の皿部分だけではない、体全体をクッションにして、玉を受け止めなければならないのだ。硬直した手首ではその衝撃を和らげることができない、動揺した呼吸は即座に伝わり、失敗を招く。荒々しいエネルギーは不要。求められるのは、つとめて冷静に、そしてやさしくあること。これがせっかちな性分の自分には存外、難しい。技が決まらないとすぐにイライラしてしまう。
はじめは一番大きな皿に玉を乗せるだけでも手こずった。参照した「日本けん玉協会」のパンフレットにはいくつか技の解説が載っていて、例えば基本的な「大皿」の説明はこうある。
「下にさげた玉をまっすぐ上に引き上げ大皿に乗せる。まずひざを曲げ、ひざを伸ばしながら下げた玉をまっすぐ引き上げる。玉を受ける時はひざを曲げながら玉の真下に大皿を持っていき、やさしく受ける。」
むむ。前提として技の説明が困難であることは承知の上で、しかしやはりピンとくるようで、こない、ひざの曲げ伸ばしなんて意識していたらとてもやっていられないのである。歩くという動作について、「まず右足を上げて、前方に向かって下ろす。それと同時に左足を上げて、また前方に向かって下ろす。それを繰り返す」のように考えていてはおちおち進めないだろう。それと同じだ。「まずひざを曲げて」と逐一やってもらちが明かない。結局は、何度も何度も繰り返し玉を投げ、成功の感触を少しずつ体で覚えていくことになる。次第に、意識せずとも成功時はひざがしっかり曲げ伸ばしされていることに気づく、これか、とそのひざを打つ。
たかだかけん玉で、と思われるかもしれないが、こんなふうに、新しい動作を習得する作業自体がなんだか久しぶりのような気がして(スポーツをはじめ、細かな技術を求められるような営為を避けてばかりいるので)、時に苛立ちを覚えつつも、トライ&エラーの感覚はフレッシュな興奮を呼び起こしてくれる、それでついつい熱中してしまうのだった。放られた玉が皿の上にひょいと乗る、その瞬間の弾けるような快感たるや! 思わず「ヨッシャ」と声も出る。
もちろん、調子に乗って動作を横着にすると、即座に玉は墜落する。自身の心持ちが面白いように表れる競技なのだ。カームダウン、カームダウン……。何度も言い聞かせながら、玉を放る。集中が大事。なんだか瞑想的でもある。
ようやく大皿には安定して乗せられるようになってきたので、これを書いている今は「もしかめ」を練習しているところだ。あれです、「もしもし かめよ かめさんよ」というやつ。大皿と、けん玉の「けん」のお尻部分に当たる中皿とを使って、玉を行き来させる技。これが50回できれば、一級相当(他の技も成功させた上で)。段位に認定されるには、その倍の100回成功させる必要があるらしい。一往復させるだけならまだしも、100回! 今のところ6、7回がMAXのわたしである。道は遠く、険しい。「こんなん、無理よ」とひとりこぼしながら、それでも懲りずにかつん、かつん。
もちろん、今のところ認定試験など受けるつもりはない。誰かの前でパフォーマンスをするなんてもってのほか、ただ密やかな、個人的享楽のためにわたしは玉を放っている。思いがけず新たな動作をインストールされて、体はぎこちなくも喜び躍動するようだ、それがわかって、そんなことで、嬉しい。技が決まらなくてもそれはそれ、また挑戦すればいいだけで。なんて、これを続けていれば玉に留まらず、身体と感情のコントロールまで上手になれそう。
安易すぎる比喩かしら。玉と、己の身体と。みずから放り上げたそれを、また冷静に、やさしく受け止めることができるかどうか? いずれ問われているのは、わたし自身のスタンスそのものだ。「もしもし かめよ かめさんよ/せかいのうちに おまえほど/あゆみの のろい ものはない/どうして そんなに のろいのか」。呼びかけるのは、呼びかけられているのはわたしか、ほかの誰かだろうか。(2025.3.15)