【#3】芦花公園へ【Sandwiches'25】

 
 
 
 

1月某日、知人のミュージシャン数人と連れ立って、京王線・芦花公園駅近くの世田谷文学館というところに出かけた。お目当ては開催中の「漫画家・森薫と入江亜季 展 ―ペン先が描く緻密なる世界―」。「ハルタ」「青騎士」といった漫画雑誌を中心に活躍する2名の作家にスポットを当てた企画展だ。集まった皆がその作品を愛する同好の徒。一緒に観てなにか語ろうじゃないか、と年始早々誘いあわせたわけである。

わたし自身、決してマンガ全般に明るいとは言えないけれど『乱と灰色の世界』『北北西に曇と往け』といった入江亜希作品をながく愛読している。今回の展示はそれらの膨大な生原稿にくわえて、ここでしか見られないラフ画やクロッキー作品、また作家の仕事道具や蔵書も公開されており、とにかく心躍らずにいられない内容なのだった。2~3時間ほど、めいめいが思い思いに会場を歩き回り、ときおり「これ、やばいね」などとため息まじりの声をかけ合いながら、へとへとになるまで過ごした。

どうやったらこんなふうに美しい線が引けるのかな。もしや、作家と同じペンを買えばいいのかしらん? や、もちろんそんなわけはない……。描き続けた時間、人知れぬ鍛錬によって裏打ちされた技術の存在は前提として、作者のうちにあるマンガという表現様式への信頼、愛情こそが、どこまでも豊かな筆致となって表れているようだった。揺るぎなく、そこには生命が宿っていた。

うっとりするような絵のひとつひとつを眺めているうち、幼いころ「進研ゼミ」の努力賞(テストの答案を提出するたびにポイントが貯まり、そのポイント数に応じて好きな景品と交換することができた)で必死になって手に入れた「マンガ家セット」、つけペンに原稿用紙、スクリーントーンなど、初心者向けの作画道具が一通り揃ったそれをもって「ぼくはマンガ家になる」などと宣い、しかし1ページと完成させられず挫折した、そんな苦い思い出がよみがえった。

小学生のころは流行りの新刊を買うにもお小遣いが足りなくて、マンガを読みたいときには図書館によく行った。もっとも多くは古典的な名作たち、例えば手塚治虫や石ノ森章太郎、水木しげるといったような大家の手によるものに限られていて、はじめは古くさいものと敬遠していたけれど、読めばすっかり夢中になった。夏休みの自由研究か何かで、手塚治虫の作品を紹介するコラージュ・ボードみたいなものを作った覚えがある。実写映画化で話題になっていた『どろろ』とか、『火の鳥』。クラシカルな『ロストワールド』なんかも好きだった。目眩く大冒険、ロマンス。ときに悲劇。憧れた。マンガ、面白い! 自分も描いてみたい! あるとき、確かにそう思ったのだった。

そのとき湧いたささやかな欲望自体に嘘はなかっただろうけれど、長続きはしなかった。単に少年ゆえの移り気か。理由はひとつでないにしろ、「マンガを描きたい」といってすぐに「マンガ家セット」のような道具を揃えることばかりに気を取られた、今も変わらぬ型・ガワ偏重の軽薄さは少々問題だったような気もする。たとえとびきり上等なペンを手に入れても、魅力的な作品が勝手に生まれてくるはずはない。いったいどんなキャラクターが描きたいのか? どんな物語を作りたいのか? そこから出発できなければ、それこそお話にならない。

展示を見終えた後、喫茶店であれこれ感想を交わしているうちに話題はそれぞれの音楽活動についてへと移っていった。最初に書いた通り、その場にいた全員がミュージシャンでもあるので自然な流れなのだが、たった今目撃したマンガ家たちの作品と、おのれの創作物とは到底比較になりそうもなく、どうにも口をつぐんでしまうばかりだった。「美しい線」を成すにはまだ程遠い。それでも、今自分が表したいものはなにか?  何度でも問い、また手を動かし続けるしかないのだ。小手先のことにかまけていたら、作品に命は宿らない。音楽もまた、同じこと。

……もっとも、それでくよくよするなんていうのもなんだか贅沢、というか傲慢というもの。偉大な作家の筆跡に直で触れられた、その体験は素直に喜びとして受け取っておくべきものだろう。お土産に買ったポストカードを机の横に貼った、それでニヤニヤできるんだもの。たぶんに幸福なのだった。(2025.1.18)

 
maco marets