【#2】符合するかえる【Sandwiches'25】

 
 
 
 

ついこないだ、お正月に『ぼくの文章読本』(荒川洋治・著/河出書房新社、2024年)という本を読んだ。そこで草野心平という詩人の話が紹介されていて、「蛙の言葉」によって綴られた詩の存在(「ごびらっふの独白」ほか)を知った。人ならざるものの声を想像して書かれた詩。「るてえる  びる  もれとりり  がいく。/ぐう  であとびん むはありんく るてえる。」といったぐあいに。恥ずかしながらこれまで読んだことがなかったが、おもしろい、と思ってすぐに古本のサイトで「草野心平」を検索し、物色。詩集と、随筆集と、入り口になりそうなものを数冊選んで注文しておいた。

その日の午後、父方の祖父母が暮らす家に正月の挨拶に出かけると、食事もひと段落したところで祖父がおもむろに立ち上がり、自室から数冊の本を持ってやってきた。いわく「わしはこんな詩を読んで育ったのだよ」と。昨年、わたしがささやかな詩集を作ったことを知ってか、祖父は自身の文学遍歴を紹介してくれたのである。

今年で93歳になる祖父は戦中、満州で過ごした。また学生時代には文芸部に所属していたという。その手にあった数冊のうち、満州の唱歌をまとめたものがいくつか、それから室生犀星、萩原朔太郎などの近代詩人の代表作をまとめたアンソロジーがひとつ。もうひとつが『日本の詩 草野心平』という、そう、草野心平の作品をまとめた全集ものだった。

午前中にちょうど「草野心平」についてあれこれ調べ、詩を読んで……としていたものだから、祖父が自分の書架からそれを選び取ってきた偶然に驚き、またのぼせたような気持ちになった。こうした符合は日常においてまま起こり得ることではある。ただ、それがまったくの偶然だったとしても、なにやら導きのようなもの、運命的な作用を感じずにはいられない(軽薄なロマンチストなのだ)。

祖父にそのことを興奮気味に伝え、この詩集を借りて読んでもいいかと聞くと、ではあげるよ、と言う。それで『日本の詩 草野心平』を東京まで持って帰ってきた。今、手元にある。奥付けには昭和50年(1975年)初版発行とあるから、この全集自体は幼少〜青年期でなく、後年になって祖父が買い求めたものだろう。状態もいい。古本サイトでは見つけられなかったこの全集には、上述の「ごびらっふの独白」ほか、蛙語ではない、実直な人間の言葉で綴られた多くの作品が収められている。

嬉々としてページをめくっているうち、はたと気づいた。祖父は草野心平といつ、どのように出会ったのか。どんな詩を好んでいたのか? そうしたことを聞きそびれていた。たまたま繋がった、わたしと祖父との興味の連関をもっと掘り下げるべきだったのに。ちいさな符合ばかりに気を取られて、偶然をドラマチックに喜ぶのに必死で、他に知るべきことを確認せぬまま帰ってしまったのだ。こういうところが、自分の軽薄さ。悪い癖だと思う。

いっそ電話して聞いたらいいのかもしれないが、なんだか気恥ずかしい。どうしよう、どうしようと意味もなく躊躇しているうちに、数週間も経ってしまった。このままずっと聞かないままになってしまうかもしれない。こうして放置するうち、風化した問いはいくつもある……。

ぼんやりと蛙の独白をなぞりながら、わたしは青い顔で机に座るばかりだ。「けるぱ うりりる うりりる びる るてえる。」これらの詩が祖父にとってどのような意味を持っているのか、しばし、想像してみよう。答えを聞くのはそれからでも遅くない。そう言い聞かせて、目の前のページを少しずつ、少しずつ、めくっている。(2025.1.11)

 
maco marets