【#5】とんぼの眼玉【Sandwiches'25】
先日この『Sandwiches'25』で草野心平による詩「ごびらっふの独白」を紹介した(蛙の言葉で書かれた詩、というやつね)が、なんだかずいぶん気に入ってしまって、現在は関連作を収めた詩集と、それからエッセー集『酒味酒菜』(草野心平・著/中央公論新社、2017年)などを少しずつ読んでいる。
詩作品はもちろんのこと、このエッセー集がまた面白い。例えば巻頭、岩魚(いわな)の腹をカミソリで割き、胃袋をあらためると、そこから「川虫とかとんぼの眼玉とか、食べて間もない緑色のイモムシとか」が出てくるという、そんな話から始まる「贋紫式部」。
魚の腹をカミソリで、と書くとなんだかギョッとするかもしれないけれど、もちろんグロテスクな猟奇趣味などではない。川魚をいかに釣るか、そしてどう食したか。その滋味は、といった話題が著者の幼少期の記憶を紐解きつつ語られる。文庫本にしてわずか4ページの、短い随筆だ。
魚を記述するディテールの一つひとつがみずみずしく、鮮やかで、まるで手に触れるウロコの、冷たくぬめっとした感触が伝わってくるよう。山女魚(やまめ)に紫式部にも通ずる外柔内剛のエロティズムを見出すという、話のオチも含めて印象的なエッセーだった。
これらの作品を読んでいるうち、とある友人の顔が思い浮かんだ。かれこれ10年近い仲の、同世代のシンガーソングライター。詩を愛読し、また自然を好むような人。彼人は蛙の詩だって、魚の腹を割くエッセーだってきっと気にいるに違いない。教えてあげようか、いや、もしかしたらもう知っているかもしれないけれど、今度会うときにプレゼントしてみようか……。
ずいぶん押し付けがましいが、わたしはそんな風に、読んでいる本と知人とを勝手に結びつけてしまう癖がある。きっと好きだろうな、読んでほしいな。それは言ってみれば音楽や、映画や、お気に入りのご飯屋さんなんかを紹介するときと変わらない感覚だけれど、実際にプレゼントするかどうかはもちろん、ある程度仲の良い相手に限る。
自分が贈られる立場になってみればうれしい、しかしそれも万人に共通する感覚かといえば少々怪しく、本というのは多分に言葉をたたえたびっくり箱なのだから間違ったメッセージを伝達する可能性だってあるし、そもそもその人とある一冊の本を結びつけたのはおのれの勝手なイメージ、言い換えれば偏見、そこにあるバイアスの存在が露呈するわけでこれはとにかく危険なことなのだ。
そのズレもまた当然として面白がってくれるような、そんな相手でなければ、本のプレゼントは避けた方が無難かもしれない(音楽や映画も変わらないといえばそうだけど、それらと比べると読書はより能動的な作業ではあるから、その意味で独特の「重さ」があるよね。と、これも偏見かしらん……)。
もし「ごびらっふの独白」を、この蛙の言葉で書かれた詩をその人に贈ったとする。「るてえる びる もれとりり がいく。/ぐう であとびん むはありんく るてえる。(…)」と、その文字面だけではほとんど意味不明。なんだ、お前はこんな暗号文を自分に読ませてどうしたいのだ、と相手は大いに困惑するだろう。
そこでわたしは必死に、「いや、この『蛙の言葉』がまず発明じゃない? それにちゃんと『現代語訳』もあってね、でこの内容がまたよくってね……」などと説明を試みるだろうが、それにしたってこの詩から受けた感銘をそのままに伝達するのは難しい。最後には「いいから黙ってこの『良さみ』を感じろ」とブン投げることになり、これはもう相手からすれば突然の暴力と同じだ。ばか、「感じろ」じゃねえよ、と激昂されてもおかしくはない。
それならまだエッセー集『酒味酒菜』を贈るべきだったとも思う(先述のように、詩作品よりは多少紹介めいたことが可能になるから)が、その二択においてわたしはまず詩作品の方を選んでしまったのだった。とはいえ詩人・草野心平を知るならまずはその詩から、とは順序としておかしくないはずだしなあ……。
と、あれ、「もし」の話ではなかったか? と察しのいい御仁は気づかれただろうか、実のところわたしはすでに「ごびらっふの独白」を友人に贈ったあとなんである。贈ったはいいが、そこでこの詩のことをうまく伝えられなかった、その後悔がどうにも消えず、もやもやしている最中なのだった。もっとも「ばか」なんて言われてないし、喜んでくれたふうではあったけれど、それでも。
『詩については、人は沈黙しなければならない』(髙塚謙太郎・著/七月堂、2023年)いわく、「あなたは、あなたの感動を、感動しているだけだ」。本という紙束の上に、言葉は厳然と存在する。しかし、そこから立ち上がる無数の感銘は、わたし自身のバイアスが見せた錯覚と言ってもいいものだ。それを他人とわかちあうことの困難はいつも付きまとう。時にはすべてが「蛙の言葉」になってしまうことだってあるだろう。
まさか、カミソリで腹を割くわけにもいかない。わたしは自分の臓物を見たことがない。もちろん他人の臓物も直で見たことはないし、それに、見るのは怖い。 そういえば、わたしの小学校では蛙の解剖もなかった、だから「ごびらっふ」の中身もきっと知れない。それが理由とは言わないが、やはりその「独白」を軽々しく代弁することは許されないのだ。や。むしろ代弁できない言葉こそが、詩と呼ばれるのだったか。結局は「黙って感じろ」なのだろうか?
説明はできない。しかし、ほんの少しでも、ここにある言葉をわかちあいたい。まるで身勝手な欲望が、誰かに本を贈らせるのだ。それはずいぶん、エゴなのかもしれなかった。(2025.2.1)