【#8】うさぎの去るころ【Sandwiches'25】
2月は終わり、3月がやってくる。ようやく春の出番が近づいてきたようで、外に歩けば日の光が強く、おのずと体をあたためてくれて、うれしい。
イベント続きの慌ただしい期間を抜け一息ついたころ、久しぶりに近所をあてどなく歩いてみる。コンビニ、薬局、古本屋。役所前のスーパーと100円ショップが閉店するとの張り紙。明日が最終日らしい。ふらり、店内に入ると、陳列棚はほとんどが空っぽのがらんどうで、外国の馴染みないパッケージのパスタなどがわずかに残っている。
「今まで22年間、ありがとうございました」の声に振り向けば、店員さんと常連らしき人々が頭を下げあっている様子。わたし自身はこのスーパーになにも思い入れはないけれど(100円ショップともどもたまに利用することはあったが)、それでも22年もその土地にあった店であるなら、相応の感慨が地元住民の胸中に湧くのは想像に難くない。
最近、わたしの住む地域は何かと再開発とそれに伴う建物の建て替えが激しく進んでおり、工事の立て看板や、閉店のお知らせなどがやたらと目に入る。今の住所にはかれこれ4年ほど住んでいるけれど、ようやく馴染んできた街の景色がまた変わっていくというのは寂しいというか、「もうちょっとゆっくりしていってよ」というか、捕まえたと思ったら逃げられてしまったような、なんとなく徒労感、とでも言おうか。身勝手なようだけど、ほんの少し不機嫌な気持ちが湧く。
些細な変化だ、あの場所のあの店が潰れたところで大きな影響はないはずなのに、何かが引っ掛かる。街全体が、追い立てられるように慌ただしく装いを変えていくことの、違和感。生活に、絶えず見慣れない異物が入り込み続けることの不快。なんて、あまりにわがままか。
こうした再開発によって訪れる変化がネガティブなものかというと、わたしにはわからない。誰かにとっては得だったり、損だったり。もちろん一様ではないから。ただ古いものが良いとは限らないし、新たな景観に作り変えることが意味を持つことも往々にしてあるだろう。どこかの企業の都合のいいように、人々の暮らしまで「再開発」されてはたまらないけれど…‥。便利な複合施設でもできれば、なんだかんだと自分もそれを利用することになるはずだ。
とまれ、あれこれと変化を惜しむようになったのも年齢のせいだろうか? 以前は気にも留めなかったようなことが、妙に胸をつっつくようになった。それは今書いたような街と生活についてであったり、また知人・友人のライフステージの変化や、たまに会う家族・親戚の老いの様相であったりする。皆が、出会ったときの、最も近しく過ごした時の姿のままではない。当たり前のこと。
亡くなった人がいれば、どこか遠い場所に引っ越した人もいる(その二つは同じ意味にも思えるね)。結婚した。子供ができた。猫を飼った。昇進した。転職した。いろんな話を聞く。今はSNSがあるから、本人と直接連絡を取っていなくても、フィードを眺めていればなんとなく知れる。他人事ながら、幸あれ、と思う。
ついこないだ、友人の婚姻届に保証人としてサインを書くという、人生初の経験をした。見知った2人の人間が婚姻関係になるというのはなんだか不思議な感覚だったし、形式だけとはいえその関係の「保証」をする立場に自分がなるというのは、なんだか責任重大な気がして恐ろしくもある。
人間同士の関係が、書類の上でなんらかの定義を授かるということ。その実感のなさといったらないが、まず一番には2人の選択を祝福すべきだろう、わたしの名前よ、せめて呪いにはなってくれるなと願いながらボールペンを走らせた。幸あれ、幸あれ、幸あれ。たったの紙1枚、サイン1つで何かが決定的に変わった。別の何かはいっさい、変わらないはずだとしても。大きな約束がそこに生まれたのだ。なんだかげっぷでも出そうだった。
2人にとってはその約束が、日々訪れる変化の中でも生活を保つ、ひとつの錨のような役割を果たすのだろう。他人と寄り添って生きることの、根拠ある手触りが。いずれ風化するとしても、少なくとも今は、強靭に、喜ばしく輝いて見える理由が。それで十分なのだろう。
そういえばいつか紹介したドラマ『30歳になれば大丈夫』はとっくに観終えてしまった。こちらの軽薄な予想を裏切ってくれる、冷静かつ誠実な作品で、よかった(Amazon Primeで吹き替え版のみ視聴可能です。ぜひ)。もう3月、まもなく30歳になる、わたしもまた「大丈夫」になりたいが、そのためにどんな約束事を世界と交わせばいいのかはわからない。
明日には何も無くなる、スーパーを出て家までの道を戻る。本当は変わらないものの方が少ない、それだけはわかる、もう暑くて今年は着られまい、着古したダウンジャケットをいよいよ捨てようか考えている。げっぷは出そうで出ない、寝ぼけたように、あくびばかり溢れて止まらない。(2025.3.1)