#24 斧について(前)(All-New Sandwiches)

今日も今日とて、おのれの作品を題材に批評のまねごと……ごっこ遊びと言われればそれまでの拙い分析、いやそれ以前の思いつきや連想の類を書き散らして「All-New Sandwiches」気づけば連載スタートから半年(!)、24回目のエントリである。今回は最新作のタイトルにある「the virtual ax」というワードについて書いてみようと思う。

バーチャル・アックス。自分なりに訳せば「虚ろの斧」あるいは「仮想の斧」。以前このブログで触れたところによると、

「ax(=斧)」とは何かを切り離す、断絶を生む道具である。それはつまり逃走(あるいは闘争)の道具にもなりうるのではないか。しかし同時に、切断の容易でなさをもわたしたちは知っている。切り離せるという幻想。切り離せないという幻想。あくまで「virtual」であるのはそういう意味だ。……本当だろうか。

#21 ロケットエンジン、トカゲのしっぽ

とある。なにやらよくわからないけれど「切断の道具」としての斧というイメージが漠然とあり、上記のブログにおけるわたしはそれをトカゲのしっぽ切りと結びつけて「逃走」のための用途へと連想している。しかし「切断の容易でなさ」とはなにか、「切り離せる/切り離せないという幻想」とはなにか、てきとうな雰囲気で誤魔化したまま記事を終えていた。

結論から言えば、ここで言明できずにいたのは、切断を「意志(あるいは自由意志)」の概念と結びつける議論なのだった。これはわたしの愛読している哲学者・國分功一郎氏の著作群でも度々言及されているテーゼであり、アルバムタイトルにおける「斧」の機能を自分なりに設定する際にも欠かせない要素なはずだった!

にも関わらず、インスパイア元のテキストをすっかり忘却した挙句に「切断は困難である」とか、「物事をはじめることは困難である」とか、うすぼんやりした印象のみで触れることしかできなかったのは、もとより外部にあるテキストの援用を抜きにしては物事を語ることもできぬ自分のうすぺらな脳みそゆえだけれども、なんたる幸運か、たまたま何の気になしに読んでいた『BODY SHARING 身体の制約なき未来(玉城絵美・著/大和書房/2022)』という本の中で、わたしが出どころを思い出せずにいたテキストの内容が引かれていたのである。

以下、出典元の『〈責任〉の生成』も所有しているのだけど、あえて「孫引き」するかたちで引用する。

 國分氏は、医師の熊谷晋一郎氏との対談集『〈責任〉の生成』の中でも、お昼ご飯に食べたうどんを例に挙げてその原因を無限に辿れることを示し、意志の虚構性について話している。(中略)うどんを選択した要因を辿っていくと、本当に自分が意志によって選んだとは言えなくなってくる。

   それにもかかわらず僕が「自分の意志でうどんを食べることに決めました」と言うとしたら、それは因果関係を意志の向こう側にまで遡っていくのを単に避けているだけです。別の言い方をすれば、意志という概念を使って、因果関係を恣意的に切断してしまっているわけです。意志という概念が切断の効果をもつことがわかります。そしてそれは、本来切断できないものを切断しているわけです。

                    國分功一郎、熊谷晋一郎『〈責任〉の生成』

(『BODY SHARING 身体の制約なき未来(玉城絵美・著/大和書房/2022)』p.250 ※ブログUIの制約上、引用文内の引用箇所を太字にして区別しています)

同書においては「ビッグデータ、AI、BodySharingやBMIなどのインターフェースが人類をさまざまな制約から解放すると同時に、一見未来予測に縛り付けようとするかに見える決定論的世界を、私たちが自由に生きていく(同『BODY SHARING 身体の制約なき未来』p.254)」ヒントを探す足がかりとして「自由意志」という概念そのものを疑ってみる……そんな文脈からこの箇所が引用されていた。

因果を恣意的に切断しようとするものが「自由意志」だとして、しかし己をとりまくあらゆる関係性を切断し、新しい行為を、革命的な、奇跡的ななにかを生み出すことができるのか? そんな自由はほんとうにあるのか?

こうした議論は例えば、國分功一郎氏と、同じく哲学者・千葉雅也氏の両者による対談集『言語が消滅する前に(幻冬舎新書/2021)』などでもハンナ・アーレントやスピノザといった思想家の名と共に紹介されており、というかわたしはそこでの印象が第一にあり、まるで水の流れのような、刻一刻と変化するプロセスのなかでおのれを取り巻くものとの関係を歌おうとしてきた「Waterslide」三部作(ここでの「水の流れ」はまた、先の引用箇所で登場した「決定論的世界」や、個人の責任の範疇を超えた災禍によってなすすべもなく生活様式の変更を迫られたコロナ禍〜ポスト・コロナの世界など、さまざまなイメージを重ね合わせることができると考えている)の制作においてはその内容を多少なり意識していたつもり、である。

ざっくりと言ってしまえば、今しがた引いたいずれの書籍においても、因果から完全に切り離された「意志」など存在しないというのがひとつの共通認識だ。人間は身体的、環境的、歴史的、etc. あらゆる要因にもとづいて行為すると考えられるからである。

しかしそもそも、そうした因果のくびきから逃れた幻の「自由意志」を礼賛する意味がどこにあろうか。なぜわたしは、切断の道具たる「斧」をタイトルに入れたのか。「仮想の」という冠を被せることで、「自由意志」などないのだと確認、強調したかったのだろうか。

だいたいなぜ「斧」なのか?(後編に続く)


おしらせ


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