#38 九頭竜線にて(All-New Sandwiches)
プラットホームを見つけられずひとしきり駅構内を彷徨ったのち、ヘトヘトになりながらようやっと乗り込んだ越美北線……九頭竜線……の、たった一両のみのコンパクトな車内には午後の光線がその速度も緩慢に差し込み、ひたすらに山間を突き進むうち、窓の外には大きなとんぼが飛んでいるのだった、ときたまガラスにぶつかるようにしながら、首をねじまげたわたしの頬のすぐそばをかすめてきび・きびと跳躍した。平野部も、それを囲む山並みも、自分の故郷である福岡・早良のそれと似ているようで違う、よりたっぷりとして広大で、青々としてみえる。知らない景色。そこに、勘違いのような懐かしさが滲んでは消えた。
のんびりと電車は進み続けていた。一面の畑と木々に抱かれた線路。とんぼは悠然としてみえる、いったいなにトンボだろうか? オニヤンマのようなギラギラした感じはないが、アキアカネのようなほっそりしたシルエットでもない。そんなことを考えながらわたしはイヤホンをしていて、しかし音楽を聴いてはいなかった。直前までリピートしていたDayglowの「Then It All Goes Away」の軽快なビートも、ノイズキャンセル・モードも、オフ。押し消さねばならない雑音など、どうやらそこにはなかったから。
とんぼを目にしてから、ただずっと並走する彼らを見つめていた、ほかの乗客も同じようにぼんやりしているようだった。参考書を手にしたまま船を漕ぐ高校生や、ひとり旅の途中かスーツケースを抱えた初老の男性、それからひとり、右向かいに座るパーマヘアにキャップを被った大荷物の男……Tシャツから伸びた筋肉質な腕には派手なタトゥーが読み取れる、彼だけは忙しない様子で携帯電話を覗き込んでいて、その神経質さはどこか「東京的」だ。つまり自分と同じである、都会で標準とされるある速度を、うすのろ電車のシートに座りじくじくと持て余しているようすからも伺い知れる。どうやら、同じ音楽イベントに出演するミュージシャンなのではないかと思われた(そしてじっさい、彼とはその日の夜、本番のステージ裏で顔を合わせることになった。もっとも、いっさい言葉を交わすこともなかったけれど)。
宿泊地である越前大野の駅までは、福井駅からこの越美北線に乗ってちょうど1時間ほど。そこでホテルにチェックインし、それから送迎の担当者と合流する予定になっていた。
maco maretsとして、これまでもささやかながら国内のさまざまな場所へ赴いてきたことは先週書いたばかりだけども(#37 旅のゆくさき)、今回の福井遠征はひときわ移動のたいへんなもので、まず自宅から新横浜にゆき、新幹線で名古屋、そして米原へ、ついで米原から福井へ特急「しらさぎ」に乗り換え、さらに福井からくだんの越美北線で越前大野に向かう、そしてその駅から送迎の車で3~40分かけてようやく会場に着くといった具合。ドアtoドアで考えると片道6~7時間はかかるうえ、乗り換えの多さもいつもの比ではなく、加えてその乗り換えが数分間の大変タイトなものであったかと思えば、何十分も待たされることもあり、や、それくらいなんてことないぜとおっしゃる御仁もおられようが、そもそもが体力・気力に乏しいわたしにとってはとにかく険しい道のりなのだった。
それでけっきょく、イベントの前日に福井駅でホテルを押さえ、会場までは二日かけて向かうことにした。越美北線は、そもそも運行本数が少ない。指定の時間に会場入りするためには、そうするほかなかったのである。このとき、今回のイベントにバンドメンバーを引き連れて出演するという案が(ほんの一瞬だけ)浮かんでいたことを思い出し、たとえば彼ら気の置けない友人らと車で向かうことにしていれば、ま、それはそれでキツいだろうが、長い旅程もわいわいやれてよかったかもなあ、とほぞを噛む思いがした。ひとり旅の、一抹のさみしさというものがここにあった。
黙りこくったままぼんやりと電車のシートに身を沈め、とんぼの群れを目で追っているうち、あ、落っことした。と思った。なにを? ラッパーとしての自分を、落っことしてしまった。そう感じたのである。この感覚ははじめてではなかった。遠征のとき、移動の過程でよく、そもそも自分は何者で、何をしにここへやってきたのだったか? とそんな気分になることがある。そこで経た時間と、距離と、そして見知らぬ土地の風景とが、おのれの着衣を根こそぎ引っ剥がしてしまう、これは先週も書いた気がするが、自身を保つために運用していたある種の「幻想が、ヘトヘトになりながら行きつ戻りつする過程で解かれて」いったとき、それまでの一切がどうでもよくなってしまう。
たいへんなのが、ときには、何度も練習したはずのラップの歌詞すらずるずるこぼれ落ちてしまうことだ。歌うことを忘れる。歌う身体をどこかに置き去りに。落っことしていく。電車を乗り換えるたびに、見知らぬ地に分け入っていくたびに、徐々に、わたしは「maco marets」でなくなる。
そんなときはあわてて自分の曲をイヤホンを再生し、たしかめる。拙いリリックを呼び起こし、諳んじることで、ラッパーとしての自分を呼び戻さねばならない。一応はそれが、いまの自分にとっての正装なのだ。しかし、たった半日もない旅程で存在が脅かされるほど、それは薄弱なアイデンティティなのだろうか。ほかのミュージシャンなんかは、遠征のとき、ふと歌を忘れてしまうことなんてないのだろうか。
旅のたび、どこかに自分を落っことして、それで東京に戻れば何か元通り、おのれを取り戻したような気分になるというのは、どれだけある都市空間に、その場の時間感覚に依拠するかたちでその「自分」……習慣化された運動という意味合いの強いそれ、が成立しているか知らしめられるようでもある。
ふと、車内の沈黙をつらぬくようにして甲高く汽笛が鳴った。初めて聞く音だった。それひとつによってさえ、わたしはバラバラになる。バラバラになれる。すぐ近くを飛ぶとんぼらは、意に介さぬ様子。とんぼには聴覚ってあるのかしら? そうしてまたすぐに歌を忘れているのである。
おしらせ
▶︎最新アルバム『When you swing the virtual ax』配信中
詳細はこちら→https://linkco.re/psUESTav
▶︎連続配信シングル第6弾『Moondancer』配信中
配信はこちら→https://linkco.re/Y03ArgVb