#44 傲慢について、睡魔を交えて(All-New Sandwiches)

「All-New Sandwiches」は第44回。4のゾロ目を目にして、ほんのひととき、びくり、薄暗い予感が走るのは、「4は不吉な数字である」といつかどこかから刷り込まれているからに他ならず、このようなほとんど無意識の印象、呪いがかったイメージによってわたしはどんなにか規定されている。ほんとうはどうでもいいこと。知っている。それでも動揺してしまうのだから、しようもない。

同じゾロ目でも、11はすらりと鋭い。刃物にも、旗にも、あるいはふたりの人間にも見える。11。11月。今日で終わってしまう。さみしい。わたしは11月が好きだ。『WSIV: Lost in November』というアルバムを作ったことがある、タイトルにもノーベンバー、収録曲にも「Novemberland」とある。これはフランスの小説家・フローベールの『十一月』なんかをリスペクトしているのではないが、でもこの月のそこはかとない寂寥……10月は山々深く息づいて賑やかだ、12月も街は浮かれている、しかし谷間のように、11月はどこか孤独で冷え切っている。不毛の時間という感がある。なぜだろうか、この印象がどこでインプリントされたのか、定かではない。でも、その痩せっぽちな、青白い顔をした季節が愛しく思われる。この時期になれば、なにか気の利いた詩も書けるような錯覚が起きる。

先日も引用した『本を書く』の一節を思い出す。

ある季節はほかの季節と比べてよりよく書けるという意見について、サミュエル・ジョンソンは「奢りがもたらす幻想である」と決め付ける。怠慢なもう一つの奢り幻想は、その作品に対する作家自身の思い入れである。進行中の作品に対する作家の評価とその実際の質は、正比例も反比例もしない。関係ないのである。この作品は最高傑作だと有頂天になったり、嫌悪したりする気持ち、これらは二つとも蚊のように追い払うべきであり、無視するべきであり、抹殺するべきものである。溺れてはいけない。
(『本を書く』アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳/田畑書店/p.55)

11月の気分は、幻想だろうか。

アニー・ディラードは冷静で、厳格だ。続く「作品に対する作家自身の思い入れ」を排除せよ・「抹殺」せよというくだりは、強い言い方であるがしかし、賛同できるような気もする。驕らず、腐さず、フラットなテンションを保つこと。それは、作品そのものに内在するエネルギーのうねり、創作のダイナミクスを押し殺すこととはもちろん異なる。抑制をきかせるのは、作品を成型するおのれの手の側だ。傲慢に洗練を欠いてはいけない、ナイーヴに陥り震えてばかりもいけない。作品につながる回路から自身の感情を切断する。どこか他人事のように。鳥瞰。そのかたちはどんなふう? 色彩は?

11月はよく詩が書ける、とそれは驕りだとして、いまmaco maretsは新作のデモを4曲ほど書き上げたところである。もちろんレコーディングほか諸々の作業はこれからであってまだまだ完成には程遠いけれど、「下書き」のスピードとしては悪くない。この調子で12月、年明けて1月と書き続けることができれば、わりあいすぐにアルバムのかたちを成せるかもしれない。こういうのは勢いに乗るのが大事だ。溺れずに。サーフィンのように(と言って、「Surf」という曲まで出したくせ、実際にやったことはないけれど)。波を待つ。押し寄せるうねりに身を任せる。

「作品に対する作家自身の思い入れ」とは、浮き輪のようなものかもしれない。安全を、安心を、補償を求めて抱きしめておくもの。感情。感慨、情熱、そのようなもの。いじわるに言えば、言い訳のような。はじまりに無くてはならず、しかし最後には必要でなくなる(願わくば、そうであってほしい)もの。受け取る者とは無関係の場所で膨らみ、発火するもの。

それを手放せているかどうか、わからない。なんだかんだで歌詞を書き、歌うという営みだけは途切れず続けてきたわけだけれど、自身と音楽、あるいは自身と言葉との距離は、常に一定とはとうてい言い難い。近過ぎるときもあれば、あまりに遠いときもあって、ひたすらに伸び縮みし続ける距離のあわいを往還している。

情熱的と呼べる瞬間は少ないかもしれない。どちらかといえば黙々と、一定のペースで作業・生産し続けるのが性に合っている。悩むよりは手を動かす。そう信じて、アルバムを作ってきた。このブログやら、朗読のpodcastやら、ほとんど誰にもみられていないような創作物も同様だ。数を蓄積するなかで、距離を測り続ける、平均値を取るような感覚かもしれない。

感慨を均していく。スポンジケーキの上で、クリームを塗り広げるように。平坦に。それを「退屈だ」「単調だ」「つまらない」と評されているのか。もちろん完璧なフラットはない。あくまでフラットを志向するようなあり方、と言った程度。それはつまらない?

それはまた神を志向するような態度かも、と言えば大袈裟か。「作家自身の思い入れ」を抹殺することの是非はわからない。偏執、狂気、なんらの拘泥もない作品とはつるつるした鏡のようなものだろうか。摩擦もなく。しかしどのみち「思い入れ」とは薄らぎ、萎んでいくものではないか。

そういえばちょうど今日(11月30日)から、ビートメーカー・Joint Beauty氏のアルバム『nell』が配信開始となった。maco maretsは「Sign」という曲でrapを提供しているが、これは今からだいぶ前、たしか2020年の春ごろに書いて録音した歌である。紆余曲折あってリリースまで期間が空いた。歌詞はその当時……緊急事態宣言下の、とくべつなエモーションを滲ませたものだと思う。おぼろげにはわかる。それでも今となっては、なぜこうした歌詞にしたのか? こんな歌い方にしたのか? 仔細に思い出すことは難しい。

あるタイムラグを伴ってあらわれた、半身は他人のようなおのれの歌。わかるようなわからないような、ハテと首を傾げる心持ちでいる。当人でさえそうなのだ。今回はじめて聴いた人にとっては当時のmaco maretsが懐に抱いていた「思い入れ」など毛ほども感得できぬに違いない。

しかしそれでは、受け取り手の心をふるわせるだけの「質」を充填するにはいったいどうすべきなのだろうか。クオリティとは、どこに生じるのか。

……だらだらと連想ゲームを続けるには、今日はあまりに眠気が過ぎる。天候のせいやろか。まぶたがずり落ちて敵わない。これ以上は、また別の機会に。


おしらせ

▶︎最新アルバム『When you swing the virtual ax』配信中
詳細はこちら→https://linkco.re/psUESTav

▶︎連続配信シングル第6弾『Moondancer』配信中
配信はこちら→https://linkco.re/Y03ArgVb