#45 なきがらは触れずに(All-New Sandwiches)
きんきんに冷えた状態で師走がやってきたので、ね、これが居酒屋のビールならありがたいが、なんなら自室がまるごと冷蔵庫なのだった。毎朝ベッドから這い出すだけでもそうとうに難儀するし、一応はエアコンを設置しているのだけども(実を言えば数年前までエアコン無しで冬を越していたので相当な進歩なんである)、端までぴっちり暖気を張り巡らすことなどできないから、とにかく凍えている。なんだか、ただ寒いというだけで頭痛まで催すから不思議というか、体が弱いだけなのか? すっかりガタついた調子。こめかみがずきずきする。バファリンが手放せない。
スタジオリハーサルのため訪れた溝の口駅前の商店街では、街頭スピーカーでクリスマス・ソングがかかっていた。『赤鼻のトナカイ』。しかし店店はまだクリスマスの装いには早いらしい。パチンコ屋。ドン・キホーテ。どぎつい色彩と騒音は、ふだん通りだ。なんなら。曇り空に小雨のちらつく平日昼間、みなが少しだけ色褪せて、精彩を欠いた顔にみえる。下水と吐瀉物の匂いが滞留した細い路地を、足早に通り抜ける。
前に、この近くで大きなねずみが死んでいるのをみたことがある。それはこの日よりもっと土砂降りの、でも幾分か気温は暖かった晩夏のころで、死体はぐずぐずに開かれた状態だった。最初はその正体もわからず、注視するうちに尻尾と手足の痕跡をみつけ、そして死んだねずみであると気づいたわたしは「ワッ」と悲鳴めいた情けない声を上げ、文字通り飛び上がる勢いでその場を立ち去った。しかしそこにあった、ねずみだったもの、ねずみが崩れてしまったものの有り様はしばらく瞼の裏にこびりついたままだった。死体は恐ろしい。恐ろしいが、恐ろしいと思うのは、なぜだろう。
寒い季節になると、自室で飼っているヒョウモントカゲモドキ(ヤモリのなかま)たちの様子にも気を遣う。もうかれこれ3年ほど、3匹の個体を飼育している。名前はフラニー、ゾーイ、サリー(前にも書いたかもしれないが、意図せず全員がオスだったので、わたしも含めて気取ったボーイズ・クラブの様相をなしている)。彼らは爬虫類で、寒さに弱い。ケージにはそれぞれ暖房器具を取り付けてあるが、それでも寒そうだ。たまに触ってやると、本当に生きているのかわからなくなるほど、冷たいときがある。
しかし考えてみれば体温のある、ぬくもりのある生物といったら恒温動物たる哺乳類、鳥類くらいのもので、多くの生命はそこまであたたかくはない。あたたかくはないが、たとえば我が家のヤモリども、彼らかて活発に動き回り、食事を排泄をし、また瞼を閉じて眠る。冷たい皮膚の下には、たしかな脈動がある。ぬくもりをいのちの証左だとするのは、あやまりなのだ。
万一暖房を落としてしまったら、ヤモリたちは凍えきって死んでしまうだろう。そうならないよう気をくばっているわけだが、もしそうなったとき、たとえ寒さゆえでなくともだ、寿命を迎えて彼らの身体がふと、みじろぎひとつしなくなったとき……わたしはその亡骸に触れることができるか、自信がない。はじめから冷たい身体なのだから、さわった指先の感覚は、さほど変わらないかもしれない。それでも躊躇してしまうだろうと、そんな予感がしている。
小学生のころには、ハムスターを飼育していたことがあった。当時は「ハム太郎」のアニメなんかがテレビでやっていて、クラスメイトにもハムスターを飼育しているものがたくさんいた。わたしも流行に乗ろうと、渋る両親に無理を言って迎え入れたのだった。軽薄だったと思う。真っ白で小さな、ジャンガリアンハムスター。ユキジロウ、と名づけてそれなりに可愛がってはいたが、いつしか飽きてしまって、だんだんと世話がなおざりになった。そしてある寒い冬の日に、ユキジロウは低体温症から擬似冬眠状態となり、そのまま目覚めることなく死んでしまった。
翌朝それを見つけたわたしは、しゃくり上げるほど泣いた。「ごめんよ」と、小学生なりに切実な後悔を抱いただろう。しかし、それを庭に埋めようという段になっても、亡骸に触れることは拒否していた。両親は、最後まで責任を取って埋めるように言った。わたしは、死体をケージから取り出すのも無理だと言った。触れなかった。結局、ユキジロウはその身体が動きを止めた場所、木製の巣箱ごと埋めることになった。今でも、実家の地下に眠っているはずである。
小動物はもちろん、人間の死体にも触れたことはない。幸か不幸か、生まれてこの方27年間、遺体に触れられるほど近しい人間の死というものに遭遇せず生きてきた。祖父母も、両親ほか多くの親類、友人も存命である。もちろんいつなにが起こるかわからないが、今日のところはまだ、葬儀の予定はない。しかし親しい人間の遺体であってもやはり、触れられるかわからない。そもそも触れる必要があるのかどうかも、わからない。
死体。生きていないもの。生きていたもの。ただ生き物の形をしている、模型とは違う。模型には時間がない。止まっている。死体は、おそらく止まっていない。死に続けている。腐敗する。わたしたちと時間を共有している。だからこわい、恐ろしいということなのか。埋めたり、燃やしたり、目の入らないところに置くのはそのためか。
「死穢(しえ)」という言葉を思い出す。読んで字の如く、死の穢れを意味する熟語。「葬儀用語集」というインターネットのページ(https://www.hana-sougi.com/dictionary/229/)をみると、『古代、中世の時代、死は恐怖の対象とされ、周囲に伝染すると考えられていました。葬儀のご参列者が体に塩をふるのは、この穢れを祓い清める必要があると思われていた名残です。』とのこと。そうか。死は伝染するものだったのだ。うつるのだ。
死体に触れられない、恐ろしいと思うのはそれが「穢れたもの」であるという認識があったからなのか。汚い、と思うのとは少し違うところの。「穢れている」という、その忌避感。死を嗅ぎ取る嗅覚。触れてしまったら、自分にもその死が乗り移ってしまうのではないかという、恐れ。穢れ死ぬ。たしかに怖い。
溝の口のねずみを、自室のヤモリたちを、実家のユキジロウを思い浮かべる。ぐちゃぐちゃになった輪郭。あるいはまだ生きているけれど冷たい身体。きれいなまま、しかし触れられず巣箱ごと埋められた小さくて真っ白な生き物。そこに「死穢」を見てしまったのだろうか。小学生のわたしも、そうだったのか。綺麗に洗えばいいのか? 塩を振れば解決した? そんなわけもなさそうだけど。いつか誰か、なにかの亡骸にふれてみたら、わかるだろうか。
冬の寒さは死を想起させる。生者も死者も、同様に冷たく張り詰める。だがそれはむしろ、生と死とを切り分けず、スタティックな状態で、凍結したまま保存される、留保されている状態のようにも思える。冷蔵庫と同じだ。一時的に腐敗を免れる季節。穢れを見ずにすむ季節が冬なのだとしたら。ぐずぐずの亡骸に陥ってしまう前の、凍えた指先だとしても、保たれたそのかたちにかすかな美しさを幻視することも可能かもしれない。
その「美しさ」もまた欺瞞の域を出ないけれど、「死穢」に対する留保・抵抗としてそれを「美」に読み替えてみるという試みは、わたし自身が抱く恐れと向き合う上で必要なことにも思える。
おしらせ
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