【B.N.14】せめてきれいな包装を(Sandwiches / 2020.4.22)
(この記事は2020年4月22日に投稿した内容をそのまま再掲したものです)
ふだん、Rapの歌詞を書くときはさまざまな揚力を得てなんとかことばを飛翔させておる、と昨日はそんなお話をしました。補足して申し上げたいのは、そのちょっとした魔法のような力も含めてこそ、わたし自身がRapという表現様式に惹かれた理由を語ることができるということです。
七リーグブーツを履かせたことばでひょいッ、と遠い先までジャンプする。そりゃなんとエキサイティングなことか! かれこれ10年近いあいだこそこそと歌詞を綴り続けてきたのもこの興奮のためだと、そう言い切ってやってもやぶさかでない心持ちであります。
いっぽうで、そうした音楽の、うたわれることばとは離れた場所で……丸裸んぼでことばと向き合うことを避けてきたのか、そうかもしれん、たぶんんそうだ、と煩悶するおのれもおるのでした。こっちが今日の本題です。
ここで打ち明ければ、小学生のころの将来の夢は「小説家」。中学生のときには「最年少で芥川賞を取る」などとのたまった遍歴を持つわたしです。じっさい、大学に入ってもなお作家の先生に師事し小説を書いておった(卒業論文の代わりに雑文の束をシューレースでたばねて提出し、やさしい苦笑いをいただいた記憶もございます)。
しかし、そうして書く行為そのものは繰り返していたはずが、ただのひとつも「これだ!」「書ききった!」といった、そんな手触りの経験をもたぬと気づいたのです。ろくな作品がない。そもそも手元に残しているテキスト自体ほとんど見当たらないのでなんとも言えぬけれど、まあふわついた文章しか書いてこなかったのだな。なんとなくだけれど、「小説家になりたかった」のであって「小説を書きたかった」わけではないのかもと、そんな風にさびしく分析してしまいます。
つづったことばたちは、ある種野心めいた熱こそ帯びていたものの、真におのれと向き合った結果に生まれたものとは思えぬ。外側だけをなぞりになぞったもんでつまらない、なんて、否定しようと思えばいくらでもできてしまいそうです。それも情けないので、自戒として「もっと真摯であれ」とそれだけここで反芻しておきたい。
付け加えるとその真摯さとは、ただことばをていねいに選ぶとか、精緻な情景描写をこころがけるとか、気の利いたレトリックを使うとか、おおよそそんなところにはなく、やはり「なにを書くのか」につきると考えます。言い換えれば、この世界をどう見つめているかという、まさしく視力の試練なのだ。
それはこれまでこのnoteで書いてきた内容とも響きあうようで(#4、#5などを参照されたい)、世界と自分との関わりが、おのれのことばと不可分な関係であると思い知らされます。ちょうど先日読んだ『小説の誕生』という本に、以下のような提言をみつけました。
小説とは現実の世界に対して閉じてはいけない。それは考えることを放棄してただ作品を書くことでしかない。世界がどういうものであるかを考えるための方法や道具を作り出すのが小説で、世界とは自分の働きかけに応えてくれないものであるという前提で生き、それでも世界に働きかけつづけるにはどうしたらいいのかを考えるために小説がある、というのが私の小説観だ。
2006年/新潮社刊/保坂和志『小説の誕生』p.34より
*傍点部を便宜的に太字としました
このnoteにおけることばと、小説のことばとはまた性質を異にします。Rapのことばもそうです。ただことばはことばであって、それはつねにおのれと、世界と鏡の関係なのですね。これまで多くのタイミングで、自分は「ただ作品を書く」態度でいたのでは、とそれは否定できぬ(先に書いた「小説家になりたかった」のであって「小説を書きたかった」わけではないというのも同じ意味でしょう)。
自宅に閉じこもるようになってから、ことさら「なにを見て、なにを書くか」とうテーマについて考えるようになりました。答えは簡単に出るはずもなく、こんぐらがるあたまよ、アーーーーッ!!! と叫び出したいきぶん!
けれどもすこし落ち着いて、そのアーッの切れっ端でもこうしてつづる。それが上の引用文で言うところの「世界に働きかけつづけるにはどうしたらいいかを考える」ことの、足場にでもなればいいと願う次第です。
と、なんとか〆たところで今日はどろんさせてください。アーーーッ!!
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