#03 お残しクリップ、日誌的
年始、ひさしぶりに紙のスケジュール帳を買った。といっても予定管理ではなく、どちらかといえばダイアリー……日誌的に使ってやろうという算段である。一日一ページも埋める胆力はないわたしだから、スケジュール帳の限られたコマにその日の出来事をひとことふたこと、書く。それからその日の買い物レシートや、訪れた店のショップカードなんかを糊で貼り付けておくことにした。こうした紙切れはほっておくと無造作に積もるばかりだし、スクラップしてあげれば(たとえ「かぼちゃ(ダイス)×1」なんてレシートでも)その日の行動記録として多少の役割を果たしてくれる。
「曲のデモを書く。疲れた」
「狼男に襲われる夢を見た。雨風つよし」
だとか、適当な文句を書き連ねるうち三日坊主は免れ、日誌は続いている。いまのとこ約一ヶ月(not)坊主。じっさい「そんな断片的なぼやきを残してどうする?」という気もするし、前のページを読み返すなんてことはあまりない。それでも「残す」ことが習慣になった。
maco maretsとしてのわたしも、曲を書き、レコーディングして、それからCDやカセットテープにしたり、配信サイト上でリリースしたり、映像を付けたり、ずいぶん時間と手間をかけ、たくさんの他人の力を借りてまで自分の声・言葉を「残す」ことに時間をそそいでいる。しかしてその理由は? なぜなぜおのれ?
はっきりと言葉にすることは叶わないが、思い返せば自分の作品には常に「記録」「日誌」的側面があったことに気づく。デビュー作『Orang.Pendek』は上京して数年、どこか馴染めなさを感じていた大学時代の自分の心境が刻印されているし、そのときどきのおのれが表されているという意味ではその後の作品についても同様だ(というかそれ、当たり前といえば当たり前のことよね)。とくにコロナ禍で制作した第四作『Waterslide III』、第五作『WSIV: Lost in November』では「July 11」「"November"land」などその曲の制作月をそのままタイトルや歌詞に入れ込んだものもあって、より直接的に「日誌」としての面が強調されている。
その曲をもって表現したいなにか、伝えたいなにかがあるわけではない。そこではただ「残す」ことそのものが目的になっている。いや、のちに振り返ることがないとしても、また忘れ去られていくような、「残らない」ものだとしてもきっと構わない。そのときその瞬間に書く・作ることが必要だったということかもしれない。
と、ここまで書いて今日の記事はちっとナイーブ、ずいぶん浅薄な内容になってしまったことを反省している。だいたいこのブログ『All-New Sandwiches』だって、なんのために書いているのか? そう問われたらすっかり答えに窮してしまうわけで、うん……どうしても書かねばならぬ、そんな思いから筆を執る人間ももちろんいるだろうけれど、目下の自分がそのような状態にあるかどうか、疑わしい。ひたすら書くことを目的に書いているわけである。
なんのため、なんていう問いはおよそ不要なのだ。書く、歌う、そのような営為はすべからく己が享楽に拠っているのだし、いやしかし、その態度はある種の特権的立場だからこそ持ちうるものかも知れない? ごにょごにょ、反証に反証が積もり積もってまとまらない。そのまとまらなさをもスクラップして「残せ」ばいいのかどやさ、とりとめなく言葉を繰り返すうち開かれる「All-New」な回路を期待している。二月二日の朝。