#04 よこしまさん
毎日更新していた前「Sandwiches」とくらべて、この「All-New Snadwiches」は週一ペースなのだし時間をかけるぶん中身が濃いものになる、と思いきやそんなこともなく、毎度ぼけーっとしている間に水曜日を迎え、当日ばたばたキーボードを叩いている始末である。根っからの怠惰、そうは治りそうもなく……すっかり焦点の定まらぬくだまきコーナと化しているわけで、まだ第4回である、その冒頭からこのような陳述で文字数を稼いでいるようでは暗雲もくもく、先が思いやられる。
気づいてしまった! 当ブログのスタートとともに行った敬体(「です・ます調」)から常体(「だ・である調」)への切り替え(詳しくは#1で説明しています)がもたらした第一の効果は、わたし自身のだらしない本性をあらわする、というものだったのだ。敬体によって(下はパンツ一丁だとしても)なんとか襟付きのシャツを着た格好を保っていたのに、そう信じていたのに、文体のお行儀よさを外してみればこのざま! 文体というとおおげさか、そうだ口調だ、それひとつスイッチするだけで、誤魔化しのきかなくなる箇所のなんと多いことか。
逆に言えば、あらゆるスイッチ……言い換えはそこに生じる印象をいかようにもスライドさせうるわけで、釈明や隠蔽、その他もろもろ邪な操作を目的とする場合には、なかなかどうして有効なのだ。見本例はそこらじゅう転がっているだろう(そんなこと、あらためて書くようなことではないけれど)。
無理やりつなげるならば、楽曲制作の場においても「何を歌うか」とは別に「どのように歌うか」を問われる局面がある。それは実際の発声や歌い方、フロウの巧拙だけではなく、なんらかの「内容」を歌うとしてどんな語り口調を用いるのか、もっと言えば「話者として何者をそこにおくのか」という話でもある。わたし自身のパーソナリティがその曲の話者とイコールなら簡単だけれど、必ずしもそうではないし、「そうしたくない」場合も多い。歌詞に限らず、あらゆる文芸表現において「書き手」と「作品の語り手」とはある種の緊張のもとに関係している。
や、しかしこうしたテーマに突っ込むには準備が足りない(自分から突っ込んでおいて何を言うか、と思われた御仁。その通りである)。ただここでうすぼんやりした思いつきのメモとして残しておきたいのは、言葉を用いるとき、その主体たる「わたし」と表される「わたし」、その両者ともがきっと変形のプロセスにあって不定形、どのようなかたちで伝播するのか、それはほんに語り口次第なのかも知れぬとそういう話だ。ただしもちろん、受け手によっても無限のグラデーションが生まれるわけで言葉言葉言葉、しちゃかちゃ面倒臭い代物である。
ただ、一曲一曲歌詞を書くごとに、また当記事のような(しつこいようだけれど、適当極まる雑文であることは自覚している……)なにがしかを書き散らすごとに、バリアント的に生まれた「わたしならぬわたし」が音や文字情報として残ってゆくさまは愉快である。なぜやろか? きっと言葉によって変形しつづける自己のありようを、かたちあるものとして(厳密には音にかたちはないが)少しばかり感得できたような気がするからだ。それらが、他者からどのように受け入れられるかはまた別の話として。
前の記事でも似たようなことを書いたけれど、やはり「バラバラの自己」をすすんで認めるための操作として日々の制作があるのかも知れない。そもそも本名とは異なる「maco marets」という名義を設定しているところからして多重人格的だし、言ってしまえばこの「All-New Sandwiches」を書く「maco marets」はまたほかの「maco marets」やわたし自身とも異なる「maco marets」であり「わたし」なんである。だから適当な言動も許して、と言ってしまえばこれ邪な操作やろか、言葉言葉言葉、やはりか誤魔化し言い訳の手段ばかり手について、情けない。