#17 編みものの享楽(後)
(今回の記事は前後編の後編です)前回はどうにも話を落とすことのできないままに終えてしまい、たしか自分が編集職をかじってきたその来歴を列挙したところで「後編に続く!」とはこれ、実際いかにして継げばいいのか一週間を経たいまのわたしには迷いもあるが、しかしタイトルは「編みものの享楽」である、これによっかかるかたちで本日5月11日(水)の「All-New Sandwiches」書き進むことにする。
先に引いた『編集の実践』(津野海太郎・著/黒鳥社/2022年)の巻末には津野氏のほか、同書の編者である宮田文久氏、そして黒鳥社代表の若林恵氏による鼎談が収録されていた。そこで「編集者とはなにか」と問われた津野氏は「答えられませんよ、その手の質問には(笑)(同p.252)」といなしつつ、編集という行為そのものはね、とこう続ける。
映画の編集があるでしょう、あれなんですよ。すでに撮り終えた山ほどあるフィルムから、必要なものをえらんで、それを的確につなぎ合わせて、新しい面白さ、新しい美しさ、新しい深さ、つまり新しい価値を生み出す。すでにあるものからえらんで、つなげる−−映画にかぎらず、それが編集という行為なんじゃないかな。(同p.252)
あるものをつなぎ、あらたなかたちにして世に表す。これは津野氏が述べる通り映画や書籍に限らず、あらゆる表現/創作活動にも当てはめることが可能な在り方だと思うし、ここではすっかり恒例となった無理くりな接続を行うならば、わたしが「maco marets」として日々勤しんでいる制作作業もある種「編集的」な営みであると言えそうだ(こうして「編集」の語が広義に、どこか軽薄とも捉えかねないかたちで転用されていくことに懐疑的な向きもおられようが、ここではどうかご容赦願いたい)。
「maco marets」においては、アルバムひとつ世に出すというときもその作品が純度100%、わたしひとりの手「のみ」によって完成しているわけではない。トラックメイクから作詞作曲、実際の歌唱とレコーディング、そしてミキシング&マスタリングといった作業まで、すべてを自身でこなすというミュージシャンももちろん存在している(活動をはじめたばかりのころはわたしもそうだった)けれども現在の「maco marets」の場合そうではなく、具体的にはトラックメイクやミキシング作業は完全に外部の方に依頼するかたちをとっているほか、曲に付随するアートワーク(ジャケット写真など)やミュージックビデオも、それぞれデザイナー、映像ディレクターの手に任せている。
つまり、わたしは「maco marets」という音楽を中心にしたあるプロジェクト(そのまま雑誌に置き換えても面白い)の「編集者」として複数のクリエイターをアサインし制作を進行する、その全体の指揮をとる立場にすぎない……などと形容してもあながち間違いではないのである。たしかにわたし自身の音楽名義として存在を受容されていながら、実際に手を動かしている場所は限定的、つまり作品の一部でしかない(それはまた「作品」の定義にもよるけれど)。
たとえばちょうどいま「maco marets」六作目となるアルバムの最後の仕上げ段階に差し掛かっているが、ここまでくると実作業はほぼわたしの手から離れたところにあって、やることはと言えばエンジニアやデザイナーといった方々に「何日までに納品をお願いしたく……」ごにょごにょちくちく、頭を下げたり、突っついたりといったいわゆる進行管理のほか、プロモーション用紙資料の作成など、作品の外周を辿るような作業だったりする。
このとき、編集プロダクションでアシスタントをしていたころの仕事を思い出さずにはいられない。やっぱりどこか心なしかおそらく、わたしの根っこには「アーティスト」的な在り方とは異なる作品づくりへの態度が潜んでいるような気もして、ね、そこに没頭しきれないというか、ただ「編集者」的なまなざしをもつ他者を内面化しているということなのか? 自分でもよくわかっていないが、「このトラックメーカーとシンガーの組み合わせはとくべつな効果があるか」なんていうのはまだいいとして、「きっちりスケジュールに合わせて進行できるか」「限られた予算のなかでクオリティを担保できるか」などなど、どことなく業務的な、冷たい目線が入り込む瞬間も多々あるのだった。
またそれは、これだけ作品づくりをアウトソーシングしながらも、一切のマネジメント業務はおのれ自身で担っているという点が起こした歪みであるのかもしれない。活動の内容も方向性も自分ひとりで決めるぶん、余計なしがらみからは自由であるものの、作品をどのように完成せしめ、そして世に表すかといった部分の実質的な責任も自身にのしかかるのである。
作品づくりそのものは際限のない作業だ。おのれのうちに外部的・管理者的なまなざしを作り出さないことには作品を「完成」できないということだろうか……。あるいは単に「編集的」な作品づくりの在り方になにか魅力を感じているということだろうか。
そもそも「maco marets」が周りのクリエイター諸氏の力をぞんぶんに借りるスタイルであるのは、わたし自身にクオリティの高いサウンド/デザイン/映像 etc.を生み出すスペシャル・スキルが欠けているという点につきるのだけど(いつまでも修行中の身である)、逆に言えばわたしの周囲には各分野に長けた共同制作者が常に寄り添ってくれているわけで、とくべつ恵まれた身であるからこそ可能になった在り方なのだ。
そう考えると、フィルムを選ぶようにおのれと他者の技量を編み合わせ、ある作品を構成していくというその営みにもとくべつな喜びを認めてもいいのでは、とそんな気がしてくる。大袈裟に敷衍すれば、それは他者との関係性のなかに生きる活力を見出すことと同義ではないか?
鼎談の締めくくりにおいて、津野氏はこう言い放つ。
自分ひとりでできることなんて、たかが知れてますよ。(中略)でも自分を孤立させないで、バラバラのまま、ゆるやかに輪をつくっていくという点では、私たちの時代よりも、はるかにすぐれてるんじゃないですかね。それを各自でやっていけば、重なりあって厚くなり、やがて社会のなかに垂直化した大きな動きが出てくるかもしれない。(同p.255)
おそらく、編みものの享楽とはおのれひとりでは決して到達できぬ地点を目指して他者との関係を紡ぎ続ける、そんな地道な営みのなかにあるのではなかろうか。そうであるならば、多くの人々の力を借りて「maco marets」が存在し続けていることも(少なくともわたし自身にとっては)ポジティヴな意味を帯びてくるようで……それは「孤高の天才」とは違う在り方だろうけれど、きっと構わない。行き着く先に「新しい美しさ」を、そして「大きな動き」を見出すことができるのならば、十分すぎるほどである。